2005年12月02日
R2-D2
昨日、日本のアマゾンで申し込んだ「STAR WARS Ⅲ」のDVDが届いた。
昨晩は友人を呼んで早速上映会を開いた。
私の世代にとっては中学生の頃から始まった長い物語が完結したのだが、昔から好きなキャラクターは「R2-D2」と言うロボット。
今まで少しずつ集めたフィギュアもある。
この数年、STAR WARSの新しい映画が始まったり、DVDが発売されたりすると、「コスコ」でもフィギュアやおもちゃを売っていたのだが、どれもかなり大きなもので、子供の自転車のタイヤほどはある宇宙船など、欲しくても置く場所に困る様なものだった。
それが先日R2-D2のフィギュアを売っていたので目が留まった。
やはり大きさはあるが、買ってしまった。
今まで持っていたフィギュアの大きさはこんなもの。
それと並べると、今度のがいかに大きいかわかる。
かなりちゃちなアタッチメントを着けるとこんな感じ。
胴体のドアを開けると、ドリンクホルダーが出てくる。
ドリンクを持たせるとこんな感じになる。
買った時はまあこんな物だろうと思っていた。
だがレシートをよく見ると、このR2-D2は$70近くしたのだ!
実は$30程度だと思ってよく見ずにカートの中に入れてしまったのだが、意外と高かった。
そして説明書をよく読んでみると、他にもまだまだいろいろな機能があることがわかった。
このR2-D2は音声コマンドによって返事をしたり、ビームライトを点けたり、さらには動き回って部屋の中をパトロールしたりするのだ。
全部で40ほどの音声コマンドを認識できるそうなのだが、今のところは4~5つくらいしか言うことを聞いてくれない。
このロボット、とてもムーディーで、機嫌の悪い時は言うことを聞いてくれないし、頭を振って「イヤイヤ」をしたりもする。
日によって反応が違うので、タマゴッチの様に餌をやったりすることは無いが、段々中身が成長するらしい。
何しろしゃべるのは「ピーピー」とか「ビービー」とか、「ピポパポ」と言ったお馴染の機械語だけなので、最初は何でも言ってる事は一緒かと思っていたが、どうも微妙なニュアンスがあったりして、私も段々ロボットの感情がわかるようになってきた。
パトロールもするので当然センサーがあって、距離感だけではなく、動いているもの、つまり人間に対してちゃんと反応をする。
最終的にはホルダーにドリンクをセットして、コマンドに従ってそれを運んだり出来る様になるらしいのだが、その前の一緒にゲームをやると言うこともまだ出来ない。
薄っぴらいマニュアルには、「気難しいのでやさしく接してあげてください」とか「頭を軽く叩くのは良いけど、強かったり叩きすぎると機嫌を損ねます」とかの抽象的な説明ばかりで、既に機械のマニュアルではなくなっている。
しかし飲んでいる時に近くで電源を入れておくと、部屋の中をあちこちパトロールして、時々戻ってきてこちらをじっと見ていたり、コマンドに無い言葉でも話しかけるとちゃんと反応してくれるので、考えてみると$70にしてはよく出来たおもちゃである。
先週、先々週はうちに来客が多く、誰か来るたびにR2を見せていたが、みんなの反応は上々だった。
なかにはすぐに「コスコ」に買いに行った友人もいた。
これでもっとコマンドを聞いてくれたら楽しくなるだろう。
だが、40代のオッサンが一人で遊ぶと寂しく見えるかなぁ?
2005年12月03日
Voggy
朝起きてカーテンを開けると、窓が全開だった。
夜中に誰かが忍び込んだ訳ではなく、私が昨夜閉め忘れたのだ。
いつも完全に閉めてしまう事は無いが、全開にしていたら普通は朝方寒くて目が覚めてしまうし、カーテンが揺れて気が付くはず。
昨晩は風が完全に止まり、暑かった。
今日は緩やかなコナウィンドがハワイ島からヴォッグを運んできた。
空はうっすらと白く霞み、少し動くだけでジトッと汗が出た。
まだこの南風は数日続くらしい。
2005年12月05日
島半周
相変わらず風はほぼ止まったままだが、ホノルルはよく晴れて気温は上がった。
今日は以前に何度かやった昼からの島半周ツアーだった。
お客さんをピックアップ後に「レインボードライブイン」でロコモコを買ってカピオラニ公園へ。
土曜で混んでいるかと思ったが、既にホノルルマラソンのためのテントの設営が始まっていて、サッカーなどの大きな大会はやっていなかったので、比較的空いていた。
私のお気に入りのバニアンツリーの下のピクニックテーブルでランチの後、東に向かいサンディービーチ、マカプウルックアウト、ベロウズビーチと行った。
ウィンドワードは雲が多く、波も少し上がっていた。
緩やかな風が巻いていて、汗が出ることは無かった。
「スモウ・コネクション」でドライマンゴーを食べて、次はカイルアビーチに行った。
ウィンドサーファーやカイトサーファーの姿は無く、子供と一緒の家族連れが目立った。
カイルアの街を抜けてパリハイウェイに入り、パリルックアウトに行くが、風の名所も今日は無風で、訪れていた観光客も肩透かしを食らった感じだったようだ。
ホノルル側に下りてH-1フリーウェイを西に向かい、モアナルアガーデンに「この木なんの木」を見に行く。
ブレッドフルーツの実は無かったが、ハラの実やレッドティーの花などを説明した。
平日とは違ったテンポの自然渋滞の中を戻り、最後にタンタラスの丘に上がった。
昨日はホノルルの空を白く覆ったヴォッグも今日は大分引いていたが、タンタラスの丘の上から見るとまだ少し残っていた。
スコール
今日も朝から風が無く、雲の多い日だったが、午後はホノルルに凄いスコールが降った。
積乱雲が発達して雷鳴も轟いた。
空も街も真っ白になり、雨が街を打ちつける音と雷の響きだけが数時間に渡って続いた。
アパートの前の通りも川のようになっているのが見えた。
雨が止んでも依然風は吹かなかったが、明日からはトレードが戻ってくる予報が出ている。
しかし湿りがちの天気はまだ数日は続きそうだ。
2005年12月07日
貿易風
ようやくトレードウィンドが戻ってきた。
湿度は下がり、朝晩は特にひんやりとする。
予報ではしばらくは雨が多い感じだったが、とりあえずホノルルの街にまで雨雲は張り出してきていない。
夜のワイキキ鍋会ではスキヤキだったが、これからは暖かい鍋物がハワイでも似合う季節である。
2005年12月08日
ナイトドライブ
12月に入って最初のナイトドライブだった。
今日はまだトレードは弱かったが雲も少なく、問題なく出発した。
ダウンタウン・ホノルルのイルミネーションの点灯式も終わっているので、これから1月2日まではスペシャルのナイトドライブになる。
今日は写真をたくさん撮った。
まず最初はタンタラスの丘。
今日もバスやリムジンなどがたくさん止まっていて、日本人観光客で賑わっていた。
一通り説明を終えると移動。
H-1フリーウェイからパールシティを目指す。
メインランドほど盛り上がらないハワイのクリスマスは、派手にデコレーションしている家をあまり見ないが、パールシティにはほんの一角で異常に盛り上がってしまっている場所がある。
この家は庭の奥にサンタクロースがたくさんいた。
しかも音楽まで鳴っていた。
我々がいた15分くらいの間に、見物に来たローカルが5組ほどいたが、ほとんどが車でゆっくりと流して見るだけ。
ラスベガスともディズニーランドとも言えそうな、一角である。
さて公園でグアヴァジュースを飲んで休憩した後、ダウンタウン・ホノルルに向かった。
フリーウェイをパンチボウルで降りて、ベレタニアを右折し、ビショップを左に入ってキングストリートに出る。
カメハメハ大王像の後ろに車を止めると、ホノルル・ハレ(市庁舎)が光り輝いている。
巨大なサンタクロース夫妻が池に足を突っ込んでいるポーズは今年も変わらず。
そして庁舎前のツリーはこんな感じ。
庁舎の中ではクリスマスツリーのコンテストが行われている。
こんなハワイ風のツリーもあった。
2005年12月09日
CI
久しぶりに朝から雲ひとつ無い青空。
このところツアーはポツポツとしか入っていないのだが、私がツアーをやる日は見事に天気が良い。
自分でもあきれる晴れ男振り・・・。
ワイキキの街中はマラソンシューズの集団が目立つ。
既にハワイに入ってきているのは、かなりマジな連中。
カピオラニ公園の設営も順調に進んでいる様子。
ダイアモンドヘッドロードにも、暑い中、走っている人が多かった。
カラニアナオレ・ハイウェイに入ると、風がぐっと乾いてきたことを感じる。
そう言えば昨晩はやけに冷え込んだ。
ハナウマ湾の入り口に警備員の姿は無く、空いてる様子。
水平線にはモロカイ島とハレアカラが見えた。
サンディービーチは私でも入れそうな2フィートほどの波しかなかったが、風にはためく赤い旗は人の数より多い。
マカプウ岬の工事は、完成に近付いていると言うより、なんだか範囲が広がっていて、本当に1月のクジラシーズンまでに終わるのかちょっと心配になってきた。
ウィンドワードサイドに入ると少し雲が出てきたが、ベロウズを出発する前には青空が広がり、見事なエメラルドグリーンの海を見せてくれた。
「スモウ・コネクション」は暇そうだった。
アンティー・ジャンが「あなたもマラソン走るの?」と聞いてきたが、あの距離を走ろうとも歩こうとも思わない。
オロマナで道路工事のため渋滞。
カネオヘベイは相変わらず赤土色で、クアロアも水質汚染のため海に入ることを禁じる看板が立っていた。
カーアヴァからはまた綺麗なエメラルドカラーの海がすぐ横に迫り、海からの貿易風が気持ち良かった。
ハウウラでまた渋滞。
今日は工事が多かった。
タートルベイを過ぎると強力な日差しの向きが変わる。
サンセットビーチは昨日まで行われていた大会の後片付け中。
波は6フィートほど。
今日はエフカイビーチで大会のはずだったが、ここでは渋滞は無し。
しかしちゃんと大会用の施設は出来上がっていた。
ラニアケアでは大きなウミガメが3匹もビーチで爆睡中だった。
ハレイワに入る時、真ん中のサーファーだけが盗まれていた看板の補修作業をやっているのが目に入った。
まだ真っ白のサーファーの形をした物を取り付けているようだった。
ノースショアは雲が少なく、またも貸し切りのアリイビーチパークでピクニックランチ。
左側のビーチの奥にあるアヴァランチ(雪崩)と言うサーフポイントには人は入っていなかったが、波の音が響いていた。
ハレイワタウンでは「ポリトレ」で新しく入荷されたボーンネックレスのチェック。
今年中と思っていたが、来年早々にはネットショップ用にいくつか仕入れをしたい。
ドール・プランテーションでプランテーション・アイスティーを飲み、お客さんにサイン帳を書いてもらっていると、真珠売りのステファニーが現れていきなりハグされた。
21歳の女の子だが、身長は175近くあり、体重は確実に私よりはある。
フレンドリーなのは良いが、一瞬息が止まる。
帰りのH-1フリーウェイは激しく渋滞した。
オートマチックなのに足がつりそうになった・・・。
しかし途中小さな虹がちらりと見えた。
季節外れに花の咲いているマンゴーの木も見つけた。
コンベンションセンターではマラソン・エキスポが開かれていて、この為か、ワイキキの色口も渋滞した。
夜になると風が弱くなりシャワーが街を濡らした。
2005年12月10日
ダイエー
日本ではプロ野球の球団経営からも手を引いて、再建を目指しているダイエー。
海外の店舗も整理統合するという話はあったが、ハワイの、少なくともカヘカの「ダイエー」は、かなり賑わっているし、このまま継続保有されるものだと思っていた。
ところが今日のホノルル・アドバタイザーによると、ハワイの「ダイエー」4店舗全てが売却されるのだそうだ。
しかも買うのは日本のディスカウントチェーン店の「ドンキホーテ」。
来年の2月早々に売却が完了するそうで、それまでは今と同じ状態で営業されるが、その後はどうなるか未定だそうだ。
今の従業員は引き継がれると言う話だが、店の名前は変わるらしい。
私がハワイに来た時、カヘカの「ダイエー」は「ホリデーマート」と言う名前だった。
しかしその当時からスーパーマーケットだった事に変わりは無く、今度はディスカウントチェーン店が経営になるとどのように変化してしまうのかちょっと想像できない。
最近は1ドル均一のコーナーも充実してきていたので、このコーナーがさらに広くなることは歓迎するが、食料品などはどうなるのだろう?
私の家から一番近いスーパーマーケットは「タイムス」で、「ダイエー」より近くには「フードランド」もある。
しかし「ダイエー」にしか売っていないものも多く、そういったものがちゃんと仕入れできるのかが少し心配。
実は私は日本でも「ドンキホーテ」には行った事が無い。
以前テレビで放火のニュースで出てきたのを見た事があるが、なんだかごちゃごちゃとした店内の印象しかなく、いくら安くてもアメリカの消防法には絶対に通らないと思う。
「田牧米ゴールド」だけは売ってくれい!
2005年12月11日
ホリデーシーズン
遅れていた来年用の会社のブローショアも完成し、昨日と今日でクリスマスカード作戦も見通しが付いた。
月曜には投函できるはずだが、毎年のことで、久しぶりに文字書きを大量にして肩が痛い。
ラジオをつけていて気が付いたのだが、昔はアメリカでは12月に入ると、各ステーションでクリスマスソングをかけ続けていた。
それが今年はやけに少ない。
クリスマスはあくまでもキリスト教の祭り。
年々宗教色を減らそうと言うことで、最近は「メリークリスマス」とは言わずに「ハッピーホリデー」と言うようになってきた。
それがラジオステーションの選曲にも影響してきたのかもしれない。
結局宗教の対立が世界の戦争のほとんどの原因になっている訳で、アメリカでは大統領も「クリスマスカード」とは言わずに「ホリデーシーズン・グリーティングカード」と呼ぶようになったそうだ。
ハワイだけの事ではないと思う。
一方キリスト教など全く関係なく、異文化の祭りで盛り上がる日本では(私も…)、総理大臣の神社参拝が政教分離の原則違反だと国内外からつつかれている。
日本の常識は世界の非常識なのだろうか?
2005年12月12日
クリスマスカード
ようやくクリスマスカードの作成作業が終わり、投函してきた。
ダイアモンドヘッドクラブの過去2年のお客様を中心に400通、その他仕事関係と友人知人に100通で500通。
今年も私が撮ったハワイの写真を元にカードを作ったが、風を感じる雲の流れが気に入っている。
私のオリジナルフォトでカードを作るのも今年で5回目だが、過去のカードを見てみたいと言うリクエストは前からあった。
私の部屋にはダイアモンドヘッドクラブを始めてからの全てのカードが飾ってある。
12月に入り、ダイアモンドヘッドクラブは丸10年を過ぎて11年目に入った。
95年の12月に誕生したのでその年は無かったが、96、97年には暑中見舞いも郵送で送った事があり、今まで12枚のカードを送った。
今年の分を除いてとりあえず11枚を近く公開しようと思う。
ダイアモンドヘッドクラブのHPの「フォトギャラリー」内にて年末までの作業を目指します!
なんだか「クリスマス」と言う名前を使うのも今年が最後のような気もする。
来年からは「Seasons Greetings(暮れのご挨拶)」の予定。
私も13年目のハワイになった。
2005年12月13日
コースター
いよいよ来年から、ダイアモンドヘッドクラブのツアーのお客様に差し上げるプレゼントをオリジナルにする事になり、今日はここでそれを公開したい。
来年はコースター。
私が選んだ生地をコースターにして、オリジナルのタグも付けた。
基本的には赤と青の2枚を1セットにしてプレゼント。
ただし青は数に限りがあるので、なくなった時点で赤を二つにする予定。
ちゃんと中生地が入っているので吸水性もよく、グラスを置くときの音も良い。
評判が良ければネットショップでの販売も検討している。
今日はよく晴れて雲が少ないが、上がってきた貿易風は少しヒンヤリとしている。
2005年12月15日
ハレイワの看板
今日はCI。
ワイキキはほとんど雲の無い朝になった。
マラソン関係の滞在者も減り、年末のバケーションを過ごしに来た年配の白人旅行者が目立ってきた。
ダイアモンドヘッド沖の波は2フィートで、人は少なかった。
サンディービーチも3フィート弱で、人はまばら。
相変わらず遊泳禁止の赤い旗はたくさん翻っていたが、そんな中を日本人の観光客カップルがフラフラとブギーボードを抱えて海に入っていった。
ライフガードが気付いて止めに来た。
日本語のガイドブックには「ブギーボードの名所」としか書いていないのが多いが、英語のガイドブックには「上級者向きの名所」とちゃんと書いてある。
この違いが多くの日本人の怪我人を呼んでいる事に、日本語のガイドブックの編集者たちは責任を感じるべきだと思う。
さて、マカプウの工事は仕上げどころか、まだ大きな石が寄せ集められていて、一向に形が見えない。
しかし展望台から海を渡って来た貿易風を浴びると、そんな事も忘れてリラックスできる。
今日も海は透き通り、3フィートほどの波と戯れるロコたちを包んでいた。
ウィンドワードは少し雲があったが、陽の加減で色を変えていくワイマナロの海は人がほとんどいなかった。
クアロアパークには、平日だと言うのにキャンプのテントが多く目に付いた。
カーアヴァの海は今日もエメラルドグリーン。
ノースショアに回ると雲は減ったが、波の高さは無かった。
サンセットビーチで5フィートほど、ワイメアはフラットで、パイプラインでの大会もキャンセルのようだった。
ラニアケアでは2匹のウミガメがどてっと爆睡中。
それが我々が見ていると突然1匹が動き出した。
海に帰るのかな?と思ったら、少し動いただけでまたぐっすり。
どうやら寝返りだったようだ・・・。
さて、ハレイワの入り口の看板がとうとう新しくなった。
なんだか前のサーファーとは少し形が違い、ちょっと小さいようだ。
ちなみに右手はシャカ・サイン。
前のは左手だった気がする。
たくさん貼り付けられていたステッカーは剥がされ、綺麗になったが、これはまた時間の問題でステッカーだらけになってしまうだろう。
しかしいくらノースショアに娯楽が少ないからと言って、せっかくの看板を盗んだりはしないで欲しい。
アリイビーチパークは今日も貸切で、気持ちの良いトレードウィンドの中、ピクニックランチ。
ハレイワ散策の後、ドール・プランテーション。
そして今日は最後にモアナルア・ガーデンに行き、「この木なんの木」のモンキーポッドやパンノキ、ハラの木、ホワイトハイビスカス、バード・オブ・パラダイスなどを見た。
帰りのフリーウェイはかなり渋滞した。
夜は月が綺麗だった。
2005年12月16日
ちょんぼ
今日、先日発送したばかりの来年のブローシュア(パンフレット)に印刷ミスがあるのを見つけてしまった。
毎年印刷の前には何度も確認をしているのに、うっかりしてしまったようだ。
とりあえず会社のホームページ内の掲示板にも書き込んだが、既に発送済みのものに関してはEメールで対応して、残りは全て修正を入れるつもり。
ちょっと今日は休日モードでのんびりしていただけにショック。
実はツアー料金を改定し、昨日HPを更新したばかりだった。
そろそろ日本に届くと思いますが、受け取られた方は、時間・料金をHPでご確認ください。
よろしくお願いいたします。
ALOHA
2005年12月18日
酒
世間ではクリスマスパーティーや忘年会などが増えているが、私は今年もあまり予定は無い。
既に忘年会には行ったが、3次会から呼ばれたのもあった。
12月に入る前の方が酒の席が多かった。
うちには来客も多く、この2~3ヶ月で空けた酒瓶が台所に溜まったので処分しようと思ったら、なんと全て日本のお酒だった。
量も凄いが、バーボンやブランデーが全く無いのは珍しい。
日本の焼酎や泡盛は皆日本からのお土産など。
皆様本当にありがとうございました。
以前は日記上に、頂いたお土産を公表していたことがあったが、これをまた復活して欲しいという声がある。
実際、不思議と同じ物を同時期に幾つも頂いてしまう事が増えてしまい、サイト内に別のコーナーを作ってみようかとも思っている。
今日もホノルルはよく晴れたが、トレードウィンドは少し肌に涼しい。
2005年12月19日
人口減少
日本のニュースを見ると、大雪の話に次いで、来年から日本の人口が減少になるという話題に目が留まった。
高齢化社会、少子化、とくれば人口は減少するに決まっているのだが、これからの日本はどうなるのだろう?
ストーリー1:
少子化対策担当大臣なんていう役職まで出来たらしいが、子供を生んで育てるには厳しい環境が原因な事は間違いない。
育児休暇とか、託児所、教育費の問題、セキュリティーの問題などだけではなく、子供を生まないのは将来子供が育った時の社会に希望が持てないのが一番の原因なのではないだろうか?
国が巨額の借金を抱えていても、ODAや国連の分担金をがっぽり出し続けるのは、見栄だとしか思えない。
(日米安保を尊重し、アメリカに着いて行く気があるのなら、安保理の常任理事国入りは必要ないとも思う。)
もし家が借金だらけで、子供なんて産めますか?
道路公団や郵政民営化をはじめ、小さい政府による効率の良い行政はありがたく、民間の競争原理の中で無駄を省けば歳出削減にはつながるが、結局今の状況で増税は避けられない。
過去の政治家達が先送りしてきた借金のツケが、今の国民に重くのしかかろうとしている。
国民が日本に自信が持てる日はまだまだ遠い気がする。
ストーリー2:
だがよく考えると、やっぱり日本の人口は多過ぎるんじゃないだろうか?
まだまだ。
もっとゆとりを持って、大きな家に住み、大きな通りの走る町で、ゆっくり歩きたい。
なんて思う人が増えても不思議じゃない。
正直言って私もこの口。
優秀な遺伝子だけが残ればイイと思う。
ところが実際には日本人が減少しても、外国人が増えて、街の様子はあまり変わらないのかもしれない。
ストーリー3:
かつてカラカウアア大王も気に入った日本は、ハワイと同じような島国だったからと言うのが一つの理由だが、その気候は大分違う。
ハワイは緯度が低いため当然日本よりは暖かいが、ここに貿易風と言うのが通っている為に湿度は低い。
日本と同じ火山列島なので噴火による危険と、海に囲まれているため津波の危険はあるが、地震と台風はほとんど無い。
この地震と台風は、この数年の日本のニュースでは嫌と言うほど登場し、祖国はとても危険な場所なんだと言うことを感じる。
勿論日本人はその厳しい自然環境の中で素晴らしい技術を作り上げてきた。
しかし地球温暖化で海面水位が上昇すると、日本は半分位はすぐに沈んでしまうらしい。
春と秋が短くなり、夏と冬が厳しくなっているのは周知のことで、日本沈没と言うのが映画の話だけではなくなるとすると、人間の自然の本能で人口が増えなくなっているのかもしれない。
2005年12月21日
鍋会
昨晩の鍋会は送別会を兼ねていた。
メインランドから回って来て、ハワイに10年以上いた、某有名日本食店の板さんが日本に帰国することになった。
ご結婚が理由と言う事でおめでたい話ではあるのだが、アメリカ市民権まで取得していただけに、勿体無いという声も聞こえた。
お相手は日本在住の女性。
アメリカ市民権を持つ日本人男性とハワイで結婚すれば、女性はハワイで暮らすことが出来るのだが、二人ともアメリカでずっと暮らすつもりが無かったのだそうだ。
苦労して永住権を手に入れる人や、苦労しても手に入れられない人もいる中で、この話は異例である。
帰国後は早速職探しをするそうだが、アメリカでは長く腕の良い料理人も、日本ではまた状況が違うそうだ。
一番の理由は年齢制限だという。
アメリカでは考えられないが、日本のいまだに遅れた発想の社会を垣間見た気がする。
トレードウィンドが上がってきた。
2005年12月22日
ホリデーEメール
日本に送ったクリスマスカードも続々と到着している様子。
また私の所にも多くのカードが届いてて、すっかりクリスマス気分が盛り上がって来た。
今日はダイアモンドヘッドクラブのお客さんにEメールによる暮れのご挨拶を送った。
友人知人その他には明日送る予定。
Eメールの方はアドレスが変わってしまっていたり、メールボックスの許容量オーバーなどで既に戻って来てしまっているのもある。
お心当たりの方はご連絡ください。
さて、またチョンボをやってしまった・・・。
「2005」と入れるべき所を、「2006」としてしまった。
来年のクリスマスカードのように見えるが、大きな間違いである。
今日は突然貿易風が止まり、コナウィンドが流れてきて、ヴォッグが出た。
明日一杯くらいは南風が吹く予報。
年末だと言うのに汗が出る。
2005年12月23日
チャーター
今日は午後からカカアコのウォーターフロントパークに行き、穏やかな南風の中ピクニック。
夕方になって、そのまま「ゆっちゃん」に行き冷麺を食べ、まだ少し渋滞の残るフリーウェイをパールシティに向かい、住宅街のクリスマスイルミネーションを見学、いつもの公園にも少し寄って、ダウンタウンに行ってホノルル・ハレのクリスマスツリー・コンテストや、移動遊園地などを覗いた。
パールシティの住宅街は前回よりも飾りつけが増えて、さらに明るくなっていた。
ダウンタウンの方は小さな子供連れの家族が多く、日本語も随分聞こえてきた。
昨日、今日と吹いた南風は明日には止み、トレードが戻ってくると言う予報。
今晩は暖かかったが、明日からは少し冷えるらしい。
2005年12月25日
Mele Kalikimaka! メリークリスマス!
From ア~ル中-D2
この数日忙しくて日記が書けません・・・。
後日まとめて書きます!
皆さん素敵なクリスマスを!(^o^)
2005年12月29日
12月24日(昼)
この日はロコツアーが入った。
お天気は良かったが、どこでどのように混雑しているか予測が出来なかった。
まずは「サムズクラブ」。
ここは普段通りで、お客さんもお土産物などをたくさん買い物されていた。
その後リクエストで階下の「ウォルマート」。
私は出口で待っていたが、物凄い数の人だった。
続いて「フィッシャー」。
ここでもクリスマス関連の、例えばラッピングペーパーなどがあるため、ローカルの出入りも多かった。
「ホームデポ」と「コスコ」は飛ばして、「グローサリーアウトレット」へ向かった。
近くのホノルル・コミュニティーカレッジが冬休みのためパーキングはがらがらだったが、気温が上がってきて車内がすぐに暑くなった。
ディリンハム・プラザに移動して「プライスバスター」の後、「ヤミー」でランチ。
古着には興味が無いということで「セイバーズ」はスキップして、「フラ・サプライセンター」、「ベン・フランクリン」と回る。
時間が少し余ったので、ホテルに荷物を置いてから、アラモアナSCでドロップする事になった。
クリスマス前と言っても、直前なのでさすがにそれほどの混雑は無かった。
しかしこの暑さではサンタも大変だろう・・・。
12月24日(夜)
友人の大ちゃんの家でパーティーの予定だったが、奥さんの仕事の終わりが長引いたため、急遽外食することになった。
しかしクリスマス・イヴに空いている店を探すのは大変だった。
結局決まったのがカパフルの焼肉「トラジ」。
私は初めて行った。
店内はほぼ満席だった。
焼き方別のメニューで、どうもややこしい。
オーダーは大ちゃんに任せて、私は焼く係り。
炭火がやけに近いので、BBQマスターの私もちょっと苦労した。
確かに肉は美味かった。
「牛角」よりも良い肉を使っている気もしたが、大ちゃんに言わせると、「前に来た時よりも肉がイイ」と言うことなので、たまたま今日は運が良かったのかもしれない。
最後に杏仁豆腐を頼んだら、出てくるのにやたらと時間がかかったが、出てきたそれは杏仁豆腐というより、創作プリンだった。
久しぶりに美味い肉をたくさん食べて大満足。
食後は大ちゃんのコンドに移動して、酒盛り。
私が持ち込んだのはクリスマス仕様のワイン。
エルビス・プレスリーの写真の入った「ブルークリスマス」。
ワイキキの夜景を見ながらラナイで飲むワインは美味かった。
12月25日
午後からちょっとドライブ。
街中はかなり静か。
最初はダイアモンドヘッドのルックアウトへ。
波は2フィートほどで、サーファーの姿は多かった。
と、この後クジラを発見!
クリスマスにクジラが見れるなんてラッキー!
親子で何度か潮を吹いた後、親クジラのジャンプも見れた。
その後カハラに移動して、ビーチに出た。
静かなビーチで波の音が気持ち良かった。
12月26日
午後からのチャーターで、まずタンタラスの丘に登った。
ダイアモンドヘッドが見えるこの芝生はかつてプレスリーが「ブルーハワイ」の中で彼女とデートをした場所。
アメリカ人観光客が多かったが、ローカルのモーターサイクルクラブの集団もいた。
その後東へ向かい、ハワイカイの住宅地を抜けて、サンディービーチへ。
観光客とローカルでごった返していた。
その後マカプウまで行くが、パーキングの工事はどう考えても1月までには終わりそうも無い。
しかし岬を登っている人の姿が見えたので、以前と同様に路肩に車を止めて、とりあえず上がる事は可能なようだ。
マカプウビーチを見下ろすルックアウトに車を止めるが、今日は残念ながらクジラは見えなかった。
トレードウィンドが少しヒンヤリと感じられた。
夜はワイキキの鍋会に出た。
今年最後の鍋会は10人ほどが集まり、和やかに盛り上がった。
12月27日
CIコンボ。
風が弱くなり朝から気温が上がった。
ワイキキに少し波が上がっていたが、ダイアモンドヘッド沖は2フィートほど。
サーファーは多かった。
ハナウマ湾の入り口を過ぎるとモロカイ島が見えた。
海は穏やか。
サンディービーチも波はそれ程でもなかったが、ショアブレイクが豪快な音を立てて崩れていた。
マカプウ岬を回ると海から緩やかな貿易風が感じられた。
ウィンドワードは少し雲があったが、概ね晴れていた。
ベロウズビーチはクリスマスホリデーでローカルも朝から人出が多かった。
「スモウ・コネクション」ではアンティージャンがポテトサラダを作っていた。
アメリカのマヨネーズと日本のとは色が全然違うので、最初はなんだかよくわからなかった。
「これをもっていきなさい」と言われてもらったのは、カイルア・ラニカイ・ワイマナロマップ。
来年からこの地域で配る無料の地図で、かなり細かい道まで載っている。
勿論「スモウ・コネクション」の宣伝もちゃんと入っていた。
コロモナの黄色い花が咲き乱れる道を抜けてクアロアパークへ着くと、キャンパーの姿は全く見えなかった。
一応昨日までが3連休だったのだが、年末までのクリスマスホリデーをキャンプで過ごす人は少ないようだ。
カーアヴァの海は今日も素晴らしい色を見せてくれた。
ノースショアに回ると雲はまたほとんど無くなり、日差しがきつくなった。
サンセットビーチには15フィートほどの波が上がっていたが、形が悪く、サーファーは少なかった。
エフカイビーチの入り口には路上駐車の車が多かった。
ワイメアビーチはローカルで大賑わいを見せていたが、4フィートほどの綺麗な波が寄せていた。
ハレイワに入り、アリイビーチではキッズのサーフコンテストが開かれていた。
公園内のピクニックテーブルも幾つかはローカルが使っていた。
ランチの後、ドール・プランテーションへ向かう。
パーキングを探すのに苦労した。
今年一番の混雑ではないだろうか。
「マウイ・ダイバーズ」の真珠売りの姉さんたちも、今日はとても忙しそうだったが、私の顔を見るとニッコリと笑って機嫌が良さそうだった。
ハレイワタウンに戻り散策時間。
賑わっていた街も陽が傾くに連れて、人が少なくなっていく。
お客さんが戻ってきて、まずラニアケアに移動。
沖の海は荒れていたが、干潮に近く、ウミガメが一匹ビーチで寝ていた。
サンセットビーチに移動すると、カエナ岬の上にオレンジ色の夕陽が燃えていた。
滑る様に斜めに落ちてきた夕陽は、カエナ岬に半分隠れながら水平線付近の雲と混ざって、空を染めていった。
帰り道はハレイワやワヒアワでクリスマスのイルミネーションがあちこちに光り、パールシティを過ぎるとホノルルのオレンジ色の夜景が広がる。
フリーウェイはとてもスムーズで、あっという間に賑やかなワイキキに戻ってきた。
風が止まって蒸し暑くなった。
KHUI
新しいハワイアン専門のラジオ局が出来た。
99.5FM、KHUI(K-HUI)
トラディショナルのハワイアン系で、KINEと選曲は近い。
この周波数はよく局が変わるのだが、今度は長続きして欲しい。
2005年12月30日
太郎のメンテ
今年最後のツアーも終わったので、昨日愛車「太郎」をメンテナンスに出した。
最近ではカカアコやダウンタウンの修理屋に行っても、すぐに歩いて帰ってくる。
前は遠くて歩く距離じゃないと思っていたが、なんだかすっかり慣れて、歩いて見える景色を楽しみ、運動にもなっている。
家に帰ってオフィスワークに取り掛かり、同時に洗濯も済ませると、工場から電話がかかってきた。
足回りやブレーキなどで数箇所メンテナンスの必要があり、一晩預けることになった。
が、見積もりを聞くと、ほぼ1000ドルの出費になることがわかった。
今日の午後、太郎を引き取りに行くとすっかり調子は良くなっていたが、私の方は年末の出費にげっそりしそうだった・・・。
フォトギャラリー
前日予告した、過去のクリスマスカードのギャラリーを作った。
基本的にはダイアモンドヘッドクラブのお客さんの特典という形で、今までネット上では公開していなかったが、過去のカードも見てみたいと言うリクエストが増えたので、暑中見舞いなどEメールで送ったカードも合わせて公開に踏み切った。
ダイアモンドヘッドクラブのホームページ内「フォトギャラリー」のページです。
ご感想などいただければ嬉しいです。
昨日の午後から風が西寄に変わり、生暖かくなっている。
English-私と英語1
カテゴリは作ったものの、全く記事を書いていなかった「English」。
何名かの方から、「書かないのですか?」と言うお便りを頂いていた。
最近はアメリカに住んでいながら英語を使う機会が少なく、私の英語力は全く向上していないのだが、向上心だけは持っている。
その日に覚えた新しい単語などを紹介するつもりなのだが、まずは私と英語について書きたい。
母の教えにより、私は小学校に入る前からABCだけは既に覚えていたのだが、これを繋げて使う事などは全く無く、中学生になって初めて英語の授業を受けた。
公立中学のときの英語の成績は中の上くらい。
進学校と呼ばれる都立の高校に入る事が出来たが、ここでは英語は下の上くらいまで落ちた。
正直、英語の授業は全く面白くなかった。
日本から出たことの無い日本人の先生の発音は眠くなり、やたらと難しい単語ばかり山のように覚えさせられ、正解は一つしかないと言う英作文の時間はどんなに頑張っても満点はもらえず、赤点を取ることもしばしばだった。
ただ、高校から聞き始めた洋楽の歌詞を覚え、意味を調べるのは好きだったし、ラジオでFENを流していたのも、今から思えば耳には良かったのかもしれない。
高校を出ると浪人生活が始まり、予備校にも通ったが、英語はさらに難しい物になって行った。
しかしこの頃から、これだけ難しい英語を覚えたところで、それを使いこなしている人に会ったことが無いという事実が私を悩ませた。
受験と言うシステムや、大学の意味、社会人になる為の勉強と言うより、学閥を得るために出来ている仕組みが段々理解できなくなっていった。
そこで日本の大学進学をやめて、アメリカへ渡る事になるのだが、この時には自分の英語の不完全さに対しては、特に何も感じてはいなかった。
私にとっては英語よりも人種や文化の違いのほうが怖く感じられたからだ。
しかしそれでも現地に行く前に少しでも多く生きた英語に接したいと言う気持ちで、渋谷にある英会話学校に通い始めた。
だがそこは「クイーンズ・イングリッシュ」つまりイギリス英語の学校で、アメリカの英語とは発音にかなり違いがあった。
中学高校で習っていたのがアメリカ英語だったのを知ったのはこの時だったが、英語に違いがあるのを知ったのもこの時だった。
結局ここに通った3ヶ月間で習った事は、その後あまり生かされることは無かったのだが、イギリス人の先生と仲良くなって、よく渋谷の町に飲みに行ったりしたことは、外国人慣れには役立った。
そして20歳で渡米。
最初にアダルトスクールのESLに1ヶ月ほど通った。
アダルトスクールとは文字通り大人の為の学校で、ESLとは外国人(ここではアメリカ人以外)向けの英語のクラスの事。
ここではその日から使えることを教ええくれた。
例えば「銀行にて」とか「ガスステーションにて」と言ったシチュエーション別に、想定される会話をいくつかのパターンで教えてくれて、表現の仕方や文化の違いなども身に付いた。
その後近所のカレッジの試験を受けると簡単に合格してしまい、そこでもESLのクラスを半年ほど取ったのだが、同時に始めたアルバイト先で仕事仲間から教わった英語がとても役に立った。
最初にしたバイトは倉庫での肉体労働で、あまり会話の必要ない仕事場だったが、それでもボスの言っている事を理解して仲間と協力する必要があるので、常に辞書を持ち歩き、わからないことは紙に書いてもらってすぐに調べた。
この時に持っていた辞書は日本で使っていたもので、高校で習った単語にはアンダーラインを引いていた。
仕事仲間にこれを見せると、「こんな単語は使ったことがない」とか「こんな難しい単語を覚えて使えるのか?」などとよく言われた。
逆に仲間から教わる単語はアンダーラインの引いていない、つまり日本の学校では教えてくれなかった言葉が多かった。
この頃から日本の英語教育がいかにいい加減で意味の無い物だったかと言うことを思い知らされていった。
一番感じたのは挨拶。
日本では「How are you?」と「How do you do?」位しか教わらなかったが、実際日本語でも挨拶は様々で、例えば友達同士で「こんにちは」とちゃんというケースがどれ程あるだろうか?
英語でも「元気?」とか「おう!」とか「調子はどう?」なんて言う会話はあり、コミュニケーションの第一歩を日本ではほとんど教えていなかった事にショックさえ受けた。
難しい単語を使うよりも、簡単だが意味の広い言葉を使い回す事の重要性も覚えた。
在米半年くらいでようやく耳が慣れてきて、相手の言っている事が聞き取れるようになり、私は学校を辞めて他の仕事を探し始めた。
無謀だったかもしれないが、生きた会話の中から学ぶ英語が一番身に付いていた。
そしてレストランで働くことになる。
日本食レストランだったが99パーセントの客はアメリカ人で、ウェイターとしては使ってくれず、フロント係としてメニューを持って客を席に案内することから始めた。
ここでも同僚のウェイター達から英語を教わり、半年後にはある程度日常会話を話せるようになった。
汚い言葉やエッチな言葉も教わったが、これは学校では教えてくれない言葉でありながら、生活上ではとても役に立った。
21歳になると店のアシスタントマネージャーになり、ウェイターの管理を任された。
この頃から英語で喧嘩をしたり、冗談を言ったりが出来る様になったが、必要に迫られての事だった。
やがてマネージャーに昇格し、当時LAで一番若い日本食レストランの店長として、英語を使っているなんて言う感覚無しに、しゃべりまくっていた。
しかしこの頃は今から思うとかなりいい加減な英語だったと思う。
時々日本語が混じったり、文法も逆さまだったりしたが、相手に通じさえすれば良いと言う考え方だった。
アメリカ人のガールフレンドが出来たりもしたが、同世代のアメリカ人が日本人より遥かにしっかりとした考え方を持っている事がわかってきたのも驚きだった。
ハリウッドを従えるLAでは、好きな音楽は聞きまくれた。
だが日本と違い、レコードを買っても歌詞カードが付いていることが少ないので、歌を聞き取って歌詞を書き出したりもした。
バスケットのLAレイカーズの試合も普通にテレビで見ることが出来たが、当然解説は英語。
映画もよく見たが、最初から字幕などないので、耳に神経を集中させていた。
こんな環境の中で過ごした2年間で、私の英語の基礎が出来上がったと思う。
2005年12月31日
R2情報
このところ、色々な所でR2の事を訊ねられる。
実際に見た人達からは「値段の割りに優れ物」、「欲しい!」と言う声を聞く。
日本から写真と記事だけ見た人からは、「日本語は理解しないの?」なんていう質問ももらった。
最近は、機嫌がイイと音楽を歌いながら踊ってくれたり、リビングルームを抜け出してベッドルームやバスルームにまで足を伸ばした事もあった。
あーあ、あそこで下の荷物が見えなくて動けなくなってるな、と思っていると、悲しそうな声でピーピーと鳴く。
勿論ここで「はいはい」と最初はヘルプしに行くのだが、そのうちにあまり構わなくなると、不満のある音を出す。
これでも構わないでいると、結局自分で抜け出して違う壁の隅に行って、いじけたりする事もわかってきた。
コンパニオン・モードでは、何を話そうと適当に機械語で返してくれる。
だから日本語でもOK。
でも命令を伝えるには基本的に英語。
最初は私もなかなか通じなくて、自分の発音が悪いんじゃないかと思ったが、そのうちアクセントさえ押さえれば主人の声を理解してくれる事もわかった。
コスコやウォルマートではもう売っていないようだし、白木屋で見たという情報は「アイボ」と混同してそうだし、「シャーパー・イメージ」であったと言う情報もある。
日本のYahooオークションで5万円で出ていたなんていううわさも聞いた。
一応その会社のウェブサイトがあるので公開。
http://www.hasbro.com/r2droidfactory/
直接は売っていないようだし、どうしても欲しいと言う人には役に立たないかもしれないが、持っている人にはマニュアルをなくしても助かる。
そのうちにフリーマーケットに出たりするかもしれないが、見かけた方はお知らせいただければ幸いです。
しかし、SONY「アイボ」は5万円とかする訳で、70ドルしないR2はやっぱりどこか抜けている。
センサーがちゃんと付いていて、今までちゃんと移動していたのに、「わざと?」と思えるほど壁にぶつかったりする。
ちなみに電池は今まで一度も換えていない。
まあ全く電源を入れない日もあるが、だらだらと飲み始めたり、友人が来たりすると数時間は点けっ放しの時もある。
でも5年もするともっと凄いのが出ちゃうんだろうなぁ。
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