ハワイ日記2005年6月
2005年06月16日 ・・告白・・
2000年10月から個人のホームページに日記を付け始め、ハワイの事や身の回りに起きた事などを綴ってきた。
まだ「ブログ」なんていう言葉は無い時代だった。
2001年の同時多発テロを乗り越え、厳しい状況ながらもツアー会社を続ける事が出来た。
×1の独身だった私は再婚する事になり、その様子も詳しく書いていたが、一昨年に数ヶ月の休筆期間を置いた。
この間、私の体調などを心配して多くの読者の方に励ましを頂いたりもしたが、実は家庭内が思ったように上手く行かず、昨年からは別居生活をしていた。
一部の友人には状況を知らせていたが、この間にいらしたお客さんの中には薄々感付いていらっしゃる方もいた。
この度正式に離婚が成立し、私は×2になってしまった。
心機一転頑張るつもりではいるが、今年予定していた久しぶりの日本帰国は難しい状況だ。
そんな訳で、個人サイトはこの度ブログ形式に移行する事にした。
「ハワイ日記」だけでなく、このような「雑感」や、アメリカの事、日本の事、また英語の事などもカテゴリーを分けて書いていきたいと思う。
かつては1日200HIT以上あった「ハワイ日記」だが、毎日書かなくなってからは50〜80HITほどに落ちている。
今後はここで、毎日何か書きたいと思っている。
それぞれの記事に対してコメントを書き込むことが出来るので、ご意見ご感想などがありましたら、どんどん書き込んでください。
今後とも皆様のご指導ご鞭撻のほどをよろしくお願いいたします。
ALOHA JUN
2005年06月17日 Star Wars
午前中に仕事を片付け、昼過ぎからダウンタウンのドール・キャナリーに映画を見に行った。
エピソード2を見た時も日記に書いた気がするが、私は中学生依頼のStar Warsファンで、今回のエピソード3も楽しみにしていた。
深夜零時から始まる初日5月19日の第一回上映に行った友人もいたが、大混雑の中で見るより少し空いてきてからの方が落ち着いて見れる。
そろそろ1ヶ月。
インターネットで上映時間を調べたのだが、火曜日までの分しか出ていなかった。
月曜と火曜が同じだったので今日も同じだろうと思い、1時40分と言うのに間に合わせる為に1時半前に窓口に行くと、なんと次は2時半だと言われた。
ここに来るといつも覗く靴屋と、先月出来たばかりの「Education Works」と言う教材の店を見たが、まだたっぷり時間があったので、一度パーキングに戻ってしばらく本を読んだ。
開け放った窓から入ってくる風が気持ち良く、少し眠くなってしまった所で映画館の中に入った。
上着は持参していったが、中は冷房が効いていて目が覚める。
18もスクリーンのあるコンプレックスの一番奥の部屋に入ると、私が一番乗りだった。
2時半まで10分ほどの間に同世代と思われる男性がバラバラに二人、予告編が始まった頃にカップルが一組入ってきた。
150席ほどの部屋に5人でStar Warsが始まった。
元々Star Warsは9部作と言われていた。
最初に公開したのが4〜6部で今回が1〜3部。
その後に7部から9部目を作るはずだったのが、いつの間にかジョージ・ルーカスが6部作にしてしまった。
確かにこのペースで後3作撮ったら、最後はドルビーサラウンドが心臓に悪くなる歳になるかもしれない。
ただこのままStar Warsが終わる気がしなかったと言うのが、感想だった。
映画が終わると街はすっかり帰りの通勤ラッシュ時間に入っていて、レインボーシャワーの花びらがヒラヒラと散るキングストリートを、のんびり帰ってきた。
2005年06月18日 41回目
このブログはあくまでも日本の日付と時間が表示されるので一日ずれているが、ハワイでは今日が6月17日で私は41歳になった。(ハワイ時間にならないのかね?)
昨日からEメールによるメッセージや、プレゼントも日本から届いたりして、やっぱり誕生日は生きてきた記念の日と言う事で嬉しくなる。
実は火曜にワイキキで地元の友人達からも祝ってもらい、今週は激励されたり慰めてもらったり祝ってもらったりと、友の有難味を実感している。
なんだか先週くらいに40歳になったと思ってたら、もう一年過ぎてたと言う感じもする。
夜は友人がミニパーティーを開いてくれると言う話だが、昼間はツアーが無く、天気も良いので掃除洗濯をして、リサイクルにも行った(今日の収穫$4.65)。
写真は裏のセントラル・ユニオン・チャーチ側。
手前のベレタニア沿いにはレインボーシャワー、チャーチの庭の大きな木々はモンキーポッドで、ピンクの花をたくさんつけているのが多い。
ちらっと赤い花が見えるのはロイヤル・ポインシアナ。
この気持ち良い風をお伝えできないのが残念・・・。
2005年06月19日 KOLOHE
昨晩のパーティーについて。
祝ってくれたのはLA以来20年の親友である大ちゃんと奥さんのKちゃん。
一人の誕生日は寂しいでしょ?と食事に誘ってくれた。
タンタラスの丘に近いマキキの山手にあるコンドに住んでいる。
夫婦揃って料理が上手く、昨晩はメンチカツをリクエストした。
ホノルルの夜景が一望できる部屋からヒルトンの花火を見ながらのミニパーティー。
ここ数年、彼等から誕生日のプレゼントとしてジョークTシャツを頂いている。
今年のはこれ。
「Tweny Fo Seven」は「Twentyfour Seven」のハワイ弁で、24時間、週7日、つまりいっつもという事。
「KOLOHE」と言うのはハワイ語で、いたずら者とか腕白と言う意味。
今日のツアー中、「SUMOコネクション」でアンティー・ジェンにそのことを話すと、大受けしていた。
サークルアイランド昨晩は少しシャワーが降ったが、朝は見事に晴れ渡っていた。
久しぶりにハワイにいらしたリピーターさんのご家族をご案内。
土曜という事でワイキキの外は混雑が予想されたが、レインボーシャワーが既に満開のカピオラニ公園西端を過ぎると、ジョギングやサイクリングのローカルが目立った。
ダイアモンドヘッド沖の波は2フィート程で、ここは週末にもかかわらず閑散としていた。
カハラのピンクシャワーはそろそろお終い。
ワイアラエ・カントリークラブ沿いのピンクのハイビスカスは目に鮮やかだった。
ハナウマ湾の入り口を過ぎると、水平線にうっすらとモロカイ島が見えた。
海は青く深い色を映し、岩に砕けた波の白さが印象的だった。
サンディービーチはかなりの人出でパーキング・スペースは少なかった。
キラキラ光る砂の上に降りて色々説明していると、ビーチピクニックにやってきたアメリカ人観光客がライフガードに「危ないから海に入っちゃ駄目だよ」と注意されていた。
しかし海にはたくさんのローカルが入り、楽しそうにブギーボードやボディーサーフィンを楽しんでいる。
後ろの原っぱでは大きな凧が幾つか上がっていた。
マカプウ岬を回ってルックアウトに止める。
透き通った海で遊ぶローカルが気持ち良さそう。
海からのトレードウィンドは弱かったが、午後から少し強くなる予報が出ていた。
ワイマナロのビーチはパーキングには車が少なかったが、スクールバスが2台ほど止まっていて高校生くらいの若者がビーチやアイアンツリーの林の中にたくさんいた。
続いて「SUMOコネクション」に寄ると、アンティー・ジェンが「今度『Big MAMA』と言うブランドで、100%コナコーヒーを出したのよ」と言って、ママの写真が入った新しいコーヒーを見せてくれた。
「曙」の名前の入ったコーヒーマグとのセットも売っていた。
しかし、アンティーは毎度色々考えるなぁと感心した。
クアロア・パークはローカルがテントを出してパーティーの準備をしていた。
ビーチも子供たちがはしゃいで遊んでいた。
東海岸のドライブは今日も素晴らしかった。
カハナ湾を回りこんで見上げるライオン・ヘッド。
エメラルドグリーンのグラデーションに上空の白い雲が映り込み、まるで絵のような景色。
タートルベイのホテルの入り口には警察車両が数台止まっていたが、プラカードを持って歩く人が数人いたので、何かのデモらしい。
サンセットビーチはかなりの混雑だった。
ここでも高校生くらいの集団がいて、何かのコンペティションの様でもあった。
波は全く無く、穏やかな海が広がっていた。
ワイメアも路肩には車を寄せるような場所はなく、車内から簡単に説明してラニアケアに向かった。
しかしここもパーキングを見つけるのが大変で、少し離れたところからビーチに歩いて降りると、凄い人だった。
ビーチでピクニックをする人達だけでなく、シュノーケルをする人達のすぐ横では水の中でキャッチボールをする若い連中もいた。
それでもウミガメが2匹、水際で泳いでいる姿はなんだか健気だった・・・。
トレードが少し上がってきたがノースも天気はよく、ハレイワは車が多かった。
アリイビーチパークのパーキングは土曜でも丁度アスファルトを引き直したばかりだった様で、今日は閉まっていた。
公園の外側の路上も車で一杯。
仕方なくボートハーバー側に車を入れて、歩いてアリイビーチに出て説明。
その後ハレイワタウンで一時解散。
ノースショア・ビレッジの向かい側のロイヤルポインシアナが満開だった。
ドール・プランテーションの後ワイキキへ戻った。
土曜なのにフリーウェイは結構混雑した。
2005年06月20日 シアムリアップ
先週カンボジアで起きた外国人学校の人質事件は、アメリカ人の子供がいなかったのか、こちらでのニュースにはほとんど出なかった。
日本人の子供が数名巻き込まれ、友達を亡くすと言う悲惨な経験は、とてもかわいそうに思う。
さて、私が日系ニュースでこの話を聞いた時、「シアムリアップ」(ニュースによってはシエムリアプ)と言う地名がすぐ耳に入ってきた。
実は今読んでいる本が、1970年代のカンボジアの内戦をフリーのカメラマンの目で捉えた「地雷を踏んだらサヨウナラ」と言うもので、30年前のシアムリアップの様子が描かれている。
今はすっかり平和な観光地になっているアンコールワットになかなか近付く事が出来ない戦場の激しい様子や、戦争そのものの悲惨さ、しかしそこにはカンボジアののどかな田舎の雰囲気が漂い、日常と非日常が作者、一ノ瀬泰造氏から両親や友人に宛てた手紙と作者自身が撮った写真を通じて記されている。
ニュースで見た現在のシアムリアップはやはり田舎の雰囲気がしていたが、外国人学校が出来て日本人の子息が通う、基本的には平和な町になっていた。
銃撃戦まであった人質事件のニュースだったが、戦争の後の平和を感じる事が出来た。
しかし勿論世界から戦争が無くなった訳ではなく、無くなる見込みもないように思えるのは、とても残念な事だ。
2005年06月21日 鯛鍋
今日は午前中と夕方に何度かシャワーがあった。
夜はワイキキで鍋会。
今晩は某日本食レストランのオーナーお手製の鯛鍋。
何だか最近鍋会の料理のグレードがさらに上がっていて、「ワイキキで安くて美味しいディナーはどこ?」という質問に「鍋会」と答える人がいるらしい。
月が大分大きくなってきて明るい。
夜風はとても気持ちが良かった。
2005年06月22日
マノアフォールズ・トレイル
昨晩は雨が心配だったが、朝もコオラウ山脈には薄いグレーの雲が垂れ込めていた。
少し心配しながら準備をはじめるが、ワイキキ方面の青空に比べ山側はとても怪しい天気だった。
昨年いらしたリピーターのお客さんをワイキキでピックアップして、とりあえずマノア方面に移動。
アラワイ・ブルバード沿いで工事をしていて、いきなり渋滞。
マッカレーに入ってものろのろとしか進まなかったのだが、山の方の雲は段々少なくなっていった。
マノアの住宅街に入ると山の上には晴れ間も見え、トレイル入り口に来てもすぐに降りそうな様子は無かった。
蚊避けのスプレーをしてトレイルに入っていくとやはり少しぬかるんでいた。
しかしマイナス・イオンがぎっしりの森の空気は美味しかった。
雨の後だけに、鳥の声を上回るほど、ワイヒ川の流れは大きな音を立てていた。
路面にはねむの木の白い花が散らばっていた。
全体的に人は少なかったがアメリカ人旅行者の家族連れなどは、足をドロドロにしながら歩いていた。
ちなみに日本人には全く会わなかった。
バニヤンのゲートを抜けて竹薮に入ると、吹き降ろしの貿易風が竹を鳴らして涼しげだった。
マウンテンアップルの赤い花も見つけた。
滝が近くなるとトレイルのぬかるみも増し、慎重に進んだ。
マノアフォールズも今日は冬場並みの水量で、かなり豪快だった。
スパム結びを食べてから下山。
帰り道の方がどうしても慎重になる。
しかしその横をサンダル履きのローカルがすれ違っていく・・・。
気持ちよく汗をかいて、パーキングに戻ってグアヴァジュースをごくっと飲む。
帰りに、クローズしているはずの「ハワイ大学ライアン樹木園」のゲートが開いていたので様子を見に入っていくと、なんと普通に人がいる。
オフィスに行って「どーなってるの?」と尋ねると、「もう開いてるよ」と簡単に答える。
こっちは保険も払っているのだから再開したのならちゃんと連絡して欲しい。
と言う事で、樹木園のツアーも再開します!
パーキングに生っていたストロベリーグアヴァをお客さんと一緒に試食して帰ってきた。
Night Drive
昨年カップルでいらしたお客さんが、新婚旅行でハワイに来てくださった。
最初にBig Islandに行ったそうなのだが、マウナケアの星空観測は思ったほど凄くなかったらしい。
それもそのはず、今は満月に近く月がとても明るい。
星空観測には向いていないようだ。
しかし今晩のNight Driveではほぼまん丸の月が主役だった。
パールハーバーを見下ろす公園の芝生の上で、オレンジ色の夜景を見ながらグアヴァジュースを飲む。
昼間の暑さを忘れさせる涼しげなトレードウィンドがモンキーポッドの葉を揺らし、風の音を満月が照らしていた。
暦の上では明日(22日)が満月のようだが、ハワイはグリニッジ標準時の中ではもっとも遅い方なのでほぼ丸かったのだろう。
Chou Chou
先日取材のお手伝いをした日本の雑誌、「Chou Chou(シュシュ)」が出た。(角川書店)
夏前のこの時期はハワイ特集を組む女性雑誌が多いようだが、通常、ハワイ・ワイキキの地図、レストランなど食べ物情報、小物・雑貨情報、アコモ情報、そして勿論おしゃれショッピング情報と来る。
その後は雑誌の読者の傾向や編集者の趣味の問題でもある場合があるが、今回の「Chou Chou」は「50回目のファーストキス」と言う映画の舞台を追うという設定で進められた。
「チャーリーズエンジェル」のドリュー・バリモアが主演でハワイが舞台だそうだが、私はよく知らなかった・・・。
当日お連れした場所のうちシーライフパークとマカプウがその場所で使われていたようだ。
アザラシに意味があったなんて!
まあ取材の時点での私の仕事はドライバーと通訳のようなものなので、支持された場所を回るだけ。
でもそう言えば映画のシーンに出てきた場所だったと言う事を教えてもらった気がする。
きっとこちらではもうDVDになってレンタルしていると思うので見てみたい。
原題はなんていうのだろ?
さて、マカプウの説明書きの下にはダイアモンドヘッドクラブのHPアドレスが!
感謝!
さて「Chou Chou」を見たと言うお客さんが来るかどうか?
先日のフリーペーパーからは今のところ1件もありません・・・。
2005年06月23日 アメリカについて語る1
アメリカに住んで合計17年ほどになる。
9年前には市民権も取得して、パスポートはアメリカ。
日本に帰ると「帰国」では無く、「上陸許可」と言うスタンプが押される。
1984年、最初にLAに渡った20歳の時のアメリカは、何でも大きくて、やる気を出せばチャンスのある場所、自由で見栄を持たずお互いを認め合うと言う、良い印象が大きかった。
特にLAは、中学時代からの憧れのレイカースの本拠地でもあり、高校時代からはまっていた洋楽の聖地でもあった。
からっとした地中海性気候のLAは夏場は雲さえ出来る事が少なく、町の緑は多く、ちゃんと管理されていた。
そんなところにアメリカ人は大都市を作って、10車線以上もあるフリーウェイは毎日ぎっしりと渋滞していた。
だが人口密度は東京のそれと比べると遥かに低く、大きな体のアメリカ人でが余裕を持って生活できるように、家も街も設計されていた。
おりしも1984年はLAでオリンピックが開かれ、家の近所を聖火ランナーが走るなど、活気に溢れた雰囲気にも触れることが出来た。
しかし山下の柔道も見れない現状を知り、ここは日本ではないのだと痛感した。
次第にアメリカナイズドされ、ある物はアメリカ流に、ある物は日本の流儀のまま生活するようになる。
この国が日本と大きく違うところは、多民族国家であるということだ。
多くの国からの移民者がいて、その2世3世がいる。
既に見た目では判断できない社会で、英語だけが共通語となる。
多くの国の人たちと友達になった。
英語は道具だった。
アメリカの生活に慣れてくると、いつの間にかレストランの店長になっていたりしたが、自分の限界も見えてきた。
何しろ日本にいてそのまま大学に行っていたらどうなっていたか、と言う事に限界を感じて日本を出たのである。
いずれにせよまだ20代前半である。
ここから日本とアメリカを往復しながら、どこに住むのかも迷いながら、コンピュータの仕事をしたり、ツアーの仕事をしたりして20代を過ごした。
アメリカはこの間に湾岸戦争をして、私もぎりぎり徴用される可能性の残る年齢を過ごした。
結局アメリカで生活したいとは思ったが、それはアメリカが好きと言う理由よりも、日本での生活に不便さを感じていたからだと思う。
188センチと、日本ではちょっと規格外サイズの私はどこに行っても頭をぶつけ、腰を痛めていた。
電車に乗る時は勿論、家の中でさえ窮屈な思いをしていたし、洋服や靴は全て高くついた。
英語は話さなくてはならないが、アメリカでは普通の人としての生活が出来た。
しかし最初に見た時から10年後のLAはすっかり荒れ果て、ホームレスと犯罪の町と化していた。
暴動があり、天災も続き、私はLAを諦めハワイに移った。
すると離れ小島のハワイでは、人々がアメリカの事を随分客観的に見ていることに気付いた。
その後、大好きだったアメリカはどんどん私を裏切っていく。
日系アメリカ人として、アメリカについてこれから色々語って行きたい。
2005年06月24日 レコード
以前、引越しをする友人からパナソニックのレコードプレーヤーをもらった。
針が無くすぐには使えない物だったが、レコードは何枚か持っているので、そのうち聞きたいなと思って飾っておいた。
昨年インターネットで針を探したところ、オーストラリアの会社が通信販売していたので、型番を調べて針を送ってもらった。
ところが針だけでは駄目だった。
針の根元、カートリッジも必要だったのだ。
再びオーストラリアの会社に連絡を取って送ってもらったのだが、今度はベルトがすっかり古くて駄目だった。
ベルトに関してはインターネットで売っている店を探すと、日本に幾つかあった。
しかしアメリカに送ってくれる店が無くてまた諦めていたのだが、先日友人にその事を話すと早速日本から送ってくれた。
送ってくれた友人がメーカーに問い合わせたら一般人が取り付けることが出来ないと言われたそうなのだが、何て事無く装着完了してしまった。
20歳でアメリカに来た時は、日本に比べてレコードの値段が安かったので、次々と買いまくった。
(今でも日本は高い!)
CDの時代になるまでに買ったり集めたりしたレコードが200枚以上あるが、ほとんどは日本の実家に置きっぱなしで、今手元にあるのは50枚ほど。
しばらくは久しぶりにタイムトリップして、ノイズの入ったレコードの音を楽しみたいと思う。
80’s
と言う訳で(どんな訳だ?)、今は午前2時。
久しぶりにプラスティックの30センチレコードを聴いて、ブランデー飲んでたらこんな時間になってしまった。
で、まず昨夜の夕焼け。
世界がピンク色に包まれてました。
最近すっかり得意になったチャーハンを作って晩飯を済ませると、聴き始めました。
SONYの64BitアンプにKenwoodのスピーカーですが、「Phono」に繋いでみると、臨場感たっぷりの音が出てきました!
何しろ針は新品ですからね。
で、せっかくなので、私の20代前半を代表するレコードも紹介したいと思う。
カテゴリーが色々作れるので、これから「レコード」と言う事で私のコレクションをご紹介します。
同世代の読者が多いのでコメントもお待ちしています。
あと、「告白」後に、たくさんのメールも頂きまして本当にありがとうございます。
ブログにしてから色々と書きまくっていますが、そろそろ心の中も出して行きたいと思っています。
今後ともよろしくお願いいたします。
で、今晩は朧月夜。
ALOHA JUN
2005年06月25日 YAZ YAZ
Situation 12”(45RPM)
高校2年の時、吉祥寺のディスコでかかってた気がする。
黒のコールテンのパンツに黒のコットンシャツ。
からし色のニットのネクタイに細いタイピンをしてたっけなぁ。
INNER CITY
INNERCITY:GOOD LIFE 12”(B面は BIG FUN)
20代を勇気付けてくれた曲の一つ。
THE BREAKFAST CLUB
THE BREAKFAST CLUB (Original Motion Picture Soundtrack)
映画のサントラ盤。
A面1曲目の「Don'tYou(Forget About Me)」(SIMPLE MINDS)がどーしても欲しくて買った1枚。
WANG CHUNG
WANG CHUNG:Let's Go! (12”MAXI SINGLE)
これも20代の若者を勢い付かせてくれた。
MADONNA
MADONNA:CAUSING A COMMOTION (12”MAXI)
映画(Who's That Girl)は大した事無かったけど、この曲には随分踊らせて頂きました。
Quarter Flash
Quarter Flash:Quarter Flash
まさに80年代の幕開けのアルバムでした。
A面1曲目「Harden My Heart」はサックスのイントロが出た時点で今でも泣ける。
2005年06月26日 Dog Show
風に誘われて散歩に出ると、トーマススクエアでドッグショーをやっていた。
ここでは時々目にするのだが、いつも規模は小さい。
ルールもよくわからないしどういう審査基準があるのかも知らないのだが、皆お利巧そうなワンちゃんたちで、しばらく眺めていた。
猫じゃ絶対あんな事しないだろうなぁとも思った・・・。
レインボーシャワーの花吹雪が綺麗だった。
随分赤いですけど、ピンクシャワーではなくてレインボーです。
2005年06月27日 LEVEL42
LEVEL42:WORLD MACHINE(1985)
A面1曲目「SOMETHING ABOUT YOU」は当時LAのFMラジオで何度も何度もかかっていたのを思い出す。
新規出店
相変わらずホノルルでは新しいレストランの出店が続いている。
私の家の近くにあった沖縄居酒屋が残念ながら無くなり、そこに出来たのは「八景」と言うちょっと高級そうな日本食店。
キング・ストリートのハワイ大近くには「ビストロ・サン」と言う店が関西からやってきた。
いずれの店も既にオープンはしているようだが、ウェイターやキッチンスタッフをまだ募集している。
スタッフをちゃんと揃えずに見切り発車する店が多いが、まともなスタッフを確保するのが実は大変。
日刊サンには多くの求人案内が出ているが、出している所はいつもほとんど一緒。
特に日本人相手の商売で、まともな日本語を話せる人を見つけるとなると、とても厳しいのが現状のようだ。
学生のアルバイトも制限され、ましてやビザの無い人を雇っただけで高額の罰金を取られるハワイでは、近年のビジネス投資の勢いに対して、現地採用の日本人を雇う事を簡単に考えすぎている企業が多いように思う。
綺麗な店だが、従業員がどうしようもないとか、実はちゃんとした日本語が話せないとか、店によって色々悩みはあるようだ。
やはりうちの近所にあった「大瀧」と言うラーメン屋も「稲葉」と言う日本食レストランに変わっていた。
まだどの店にも行った事は無いが、機会があったらレポートしてみたい。
日本について語る1
日本を出てから、日本の事がよく見えるようになった。
岡目八目とでも言うか、やはりちょっと距離を置くと客観的に日本の事が理解できるようにもなった。
今現在ハワイで私が仕入れる事の出来る日本の情報は、インターネットからがほとんどだが、日系のテレビでも民放とNHKのニュースを見ることが出来るし、「報道2001」のような政治番組も見れる。
アメリカに来て、「ふーん、アメリカはこうなんだぁ」と思うことは多いが、色々な国の人々と交流していると、「なんだぁ、こうじゃないのは日本だけかぁ」と気付く事も多い。
ある意味では日本は世界の中でもかなり変わった国だと思う。
巨大な中国や朝鮮半島に飲み込まれずに歴史を築いて来たし、技術力と言う点では世界に誇れる国だ。
しかし江戸時代の士農工商全てで上下関係のとても厳しい社会があり、上の命令に従って生きるという体制が長く続き、民主化された今でも民衆自身が日本と言う国の大局を真剣に考えてきたとは思えない。
私腹を肥やす事だけを考える政治家は減ってきた気もするが、何でも先送りする駄目な政治家は全く減らず、今、そのツケが色々な形で現れている。
「戦争を知らない子供たち」を聴きながら育った小学校時代には、これからの社会、世界はどんどん平和になり、世の中はどんどん進化して行くのだと思っていた。
朝鮮戦争もベトナム戦争も、日本は何も言う事は出来なかった。
「特需」と言う言葉を教わっただけである。
しかしそれもいつの間にか終わり、アジアには一見平和が訪れたようになった。
第2次大戦中に日本がアジア諸国に酷い事をしてきたと言う事は教わった。
そしてその罪滅ぼしの為にODAと言う形で橋や道路を作ったりしてきたと言う事も教わってきた。
日本自身も戦後の復興で、今の繁栄を築いて来た。
ソ連邦は崩壊し、ベルリンの壁も無くなり、東西の冷戦も終わった。
日本としては東アジアの国々と仲良くして、経済共同圏を作りたいとさえ思っている。
そこで最初に出てきたのは北朝鮮の問題だ。
南北朝鮮統一が先に進まず、日本としても何かやりたいが、今まで放置してきた人質、いわゆる拉致問題が表面に出てきた。
北の代表に直接会って交渉した小泉首相はある意味凄かったと思う。
交渉が上手かったか下手だったかは色々と意見の分かれるところだが、核開発放棄を求める6カ国協議の進展がなかなか無い現状を見ると、北との交渉は一筋縄ではいかないようだ。
日本がもっと早くから拉致問題に対して毅然とした態度で交渉に当たっていたら、展開は勿論違っていたと思う。
しかし北が問題にしているのは日本ではなくアメリカの動き。
同盟国とは言うが、アメリカに対して日本、韓国は軍事基地を提供して、ソ連崩壊後の今でも北朝鮮や中国に対して威嚇を続けているのは確か。
アメリカの動きについてはアメリカの話でするが、日本がアメリカに対してもいまだに何故このような弱い立場に無ければならないのか。
これもなかなか答えは出てこないが、日本について、また日本人について感じた事を書いていきたいと思う。
2005年06月28日 掃除
今日はオフィスの周りを中心に片付けをした。
気持ち良く窓から入ってくる貿易風に埃を飛ばして、デスクの周りが少しスッキリした。
ちょっと散歩に行くと、ゴールデンシャワーツリーがまだ綺麗な黄色の花をつけていた。
夕方さっとシャワーが降ってダブルレインボーが出た。
2005年06月29日 母殿登場
昨日、母が日本から友達とやってきた。
オプショナルが幾つか付いたパッケージツアーで来ていて、昨晩はディナーショーに行っていた為、結局会えず。
今朝は朝から3度目のダイアモンドヘッド登山に行っていたので、午後からようやく再会した。
「サムズクラブ」、「ダウン・トゥー・アース」、「ダイエー」を回って先に一気に買い物を済ませた後、「バックナム」でディナーとなった。
母からの大量のお土産に感謝感激。
明日はまた午前午後と色々予定があるようなのだが、旅慣れている母らしく「また適当に連絡するわ」との事。
夕方にはまたダブルレインボーが出ていた。
2005年06月30日 山源
KTを通じて知り合ったミュージシャンの友人WOODYさんが奥さんとハワイに遊びに来た。
焼酎をお土産に持ってきてくれたので「飲もう!」と言うことになったが、その前に「山源」に夕食を食べに行った。
いつも利用するオープンスペースの席が一杯だったので、久しぶりに店内に入った。
店の大将や顔見知りのキッチンスタッフに挨拶して、皆して丼物を平らげると、隣のロングスでビールやつまみなどを買い足して、私の家に移動。
80年代のレコードを聴きながらすっかり盛り上がった。
Pet Shop Boys
Pet Shop Boys:DISCO(1986 Remix Album)
「WEST END GIRLS 」、「OPPORTUNITIES」などのディスコ・リミックスアルバム
「WEST END GIRLS」は21歳頃の悩める時代のBGMだった。
NEW ORDER
NEW ORDER:CONFUSION(1983 12”)
ディスコの香りです。
NEW ORDER
NEW ORDER:SUBSTANCE(1987 2枚組BESTアルバム)
「Blue Monday」や「True Faith」は今でもかなり新鮮。
「さるさる日記」と言うサイトを使って日記を付けていた6月6日〜9日の文章は、サイトが閉鎖されたために消えてしまいました。
ご紹介した写真が以下です。
6月6日 セイバース
6月8日 ベロウズ
6月9日 アリイビーチに上がって来たウミガメ
アリイビーチの後ろに出た虹
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ご感想などございましたら、社長の個人ホームページ「じゅにーK's Website」掲示板までどうぞ。
「じゅにーK's Website」
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