ハワイ日記2003年3月
3月1日
今日はノースショアツアー。
ワイキキの天気は快晴だった。
貿易風は少し強くなっているが、とても清々しい。
H-1フリーウェイは、土曜日にしては車が多かったが、H-2に入ると落ち着いた。
ワヒアワの米軍の施設の横を通りパイナップル畑を抜ける。
ノースのお天気も良い。
最初はサンセットを目指す。
途中ラニアケアでは、ここでは珍しく4フィート以上の波があったが、サーファーの姿はほとんど無かった。
ワイメアも形の良い波がきていたが、ショアブレイクに入っている人はあまりおらず、右奥の岬のポイントに上級者が固まっていた。
サンセットも6〜8フィートほどに上がっていたのだが、サーファーはそれほど多くなかった。
ノースショアのこのコンディションで、土曜にしては少な過ぎる気がしたが、恐らく西側で大会でも開いているのだろう。
サンセットビーチにラグを引いてグアヴァジュースで休憩後、ハレイワ・アリイビーチを見学して、タウンで解散。
私はノースショアMPでゆっくり読書。
今読んでいるのはベトナム戦争の本だが、やはり戦争の醜さを感じる。
私は直接戦争を見た訳ではないが、その醜さや悲惨さは子供の頃から聞かされてきた。
アメリカは2001年の同時多発テロと、1941年の真珠湾攻撃以外には、国土を攻撃された事はない。
攻撃された土地と市民がどうなるのかについての知識が少なく、結局それが政治的に反映されない。
戦争を始める人間は戦場にいないのだ。
さて、今日のお客さんは、ハレイワでジョバンニーニの屋台の海老やクアアイナのハンバーガーを食べたいと言うリクエストがあり、最初にちゃんと場所を説明していたのだが、私がL&Lにランチに行くとばったり。
海老は食べたのだが、クアアイナは混み過ぎで止めたのだそうだ。
最後はマツモト・シェイブアイスでピックアップして、ドール・プランテーションに寄り戻った。
ドール・プランテーションにも数本の赤白のコーラルツリーがあるのだが、共に綺麗な花を付けていた。
3月2日
今日も良い天気。
気温も上がった。
家の前の街路樹のコウの木はオレンジ色の花をたくさん付け始めた。
プルメリアも花が少し増えた気がする。
島バトは相変わらず車に轢かれそうになりながら道路の上をのんびり歩いている。
こんな平和な光景を見た後でも、テレビのニュースを見るとイラクや北朝鮮の問題ばかりで気が滅入る。
最初は15万人などと言っていたイラク攻撃に対する米軍の展開は、30万人を超えて、もう後戻りなど出来ない所まで来ている。
表向きは査察に協力しているイラクに対して、ここまでアメリカがやる気を見せる裏には、何か証拠があるのだろう。
しかし査察で何故これが出てこないのか?
イラク国民を取材したCNNの番組を見たが、国民の生活は経済的に苦しい以外には、思ったより自由だった。
ここが何故攻撃されなければならないのか?
一方、日本のス−パーニュースなどでは北朝鮮から逃げてきた、いわゆる脱北者のインタビューを最近よく見る。
それは人権など一切無視された、酷い生活を強いられる独裁政治の様子が想像できる。
ミサイル発射実験をしたり領空侵犯をしたり、挑発行為はなくならない。
核兵器開発の疑惑が表に出ていて、人権侵害もして、戦争を誘発させるような動きもある国に対して、日米は駆け引きの中で「体制の維持」を約束しようとしている。
アメリカはイラクの石油だけを狙っていると思われても仕方無い。
日本はアメリカの言う事だけを聞いているようにしか思えない。
日本はアメリカ無しには生きられないのだろうか?
さて、夜、執筆活動も一息ついたKTが息抜きに来た。
実は今夜遅くにワイキキでラジオの収録があるという。
ここ数日部屋に篭り切りで、人と話さなかったとかで、声の調子を戻す為に随分しゃべっていった。
ウォーミングアップを終えて仕事に出かけていた。
3月3日
朝一番で知ったのは、アルカイダが真珠湾を攻撃する計画があったというニュース。
先日リンダ・リングル州知事が、ハワイは安全と言ったばかりで、私も驚いた。
60年前に日本軍が攻撃をした象徴的な場所だと言う事と、空からの攻撃がしやすいと言うのが理由のようだが、これは先週引き下げられたテロ警戒レベルが一段上がっていた時の根拠となっていたそうだ。
結局何も起きず、警戒レベルは下がったが、ハワイは安全な場所だと思っていた人にはショックだったようだ。
どこからかミサイルが飛んできても軍の防衛システムで片づけられるが、ホノルル国際空港を飛び立った飛行機がハイジャックされて、パールハーバーに飛んで行けば、物の数分の事で対応は難しい。
やっぱりハワイはアメリカだったのだが、これでホノルルの警備は更に強化される事になる。
しかしこれが日本ではどのように報道されるのかが気になる・・・。
さて、今日は夕方「太郎」を再び工場に持って行って、帰りはまた歩いてきた。
陽射しが暑かった。
夜になってからKTがやって来た。
明日からまた日本に仕事に行く前に、ささやかな送別会を開いた。
と言っても、「飛行機で寝る!」と言うKTは、明日はツアーも無く、車も無い私と夜更けまで飲んでいった。
風が弱くなった。
3月4日
ハワイアン・エアラインが値上げを決めた。
アロハ・エアラインもこれに追随して、近く値上げを発表すると見られていて、ネイバーアイランドは益々近くて遠い島になってしまった。
夕方フロリダの友人Yoshiに電話をした。
彼も市民権が取れて、日本人女性と結婚をしたのだが、新しいアパートに引越しをしたと、嬉しそうだった。
彼の仕事も暇になってきている様で、「暇だったら遊びにおいでよ」と誘われた。
ただ暇でどこかに行くなら、日本に営業に行くのも、メインランドの友達の所に遊びに行くのも良いが、予算と危険度を考えるとハワイの中でネイバーなんかどうかな?と思っていたが、これも難しくなってしまった。
昼間工場に「太郎」をピックアップに行くと、先週はタイヤとブレーキパッドなどが新しくなったが、今度はドアの部分が少し綺麗になった。
出費が痛い。
3月5日
ハワイは失業率が上がり、スリや車上荒らしなどの軽犯罪が増えている。
ツアー中には一度も荒らされた事の無い「太郎」だが、アパートの駐車場で過去に3度もカギを壊されているのだ。
そこでカー・アラームを付ける事にした。
実は9年前にLAから引越してきた時、船で送って持ってきた車があった。
小さなTOYOTAカローラ。
これにはちゃんとアラームが付いていたのだが、「ハワイでカローラを盗む奴などいない」とか、「中に物を置かなければ大丈夫」などとローカル達に言われ、単にリモコンでキーの開閉をしていただけだった。
ある日、カイムキの住宅街にあった、当時私が務めていた会社の前にカローラを止めて、会社の大型バンで仕事に出ていた。
仕事が終わり会社に戻るとカローラが無い。
駐車違反でもないのにトゥ・アウェイ(レッカー)されてしまったのだが、その理由は住民の苦情で「アラームがうるさい」から。
車を取りに行くと、荒らされた形跡などは無く、恐らく近所の子供が車に触れたか、何かの衝撃にセンサーが反応してアラームが鳴ってしまったらしい。
勿論こう言ったアラームは1〜3分ほどで止るようになっている。
それも我慢出来なかったのか、カー・アラームを知らなかったのか、とにかく住民が警察に「騒音」として通報して、私は「騒音」のせいで「整備不良」を取られてしまったのだ。
しかし待てよ?
もし本当に車上荒らしに荒らされる所で、アラームによって逃げたのだとしたら、最初の被害者は、未遂だったにせよ、私ではないのか?
「騒音」に感じた住民は仕方無いとしても、治安を守っている警察の対応は納得がいかなかった。
その後私はアラームをかけたことは無かった。
いまやハワイでもカー・アラームは当たり前。
今後被害が出ないように投資する事にした。
知り合いに聞いたセキュリティのショップはワードの先、クイーン・ストリートにあった。
店に入ると店員の対応も良く、わかりやすく説明してくれた。
明日早速付けてもらう事にしたが、やはり朝が早いので夕方再びショップに行って車をドロップしてきた。
家まではモーティーにお願いして送ってもらった。(Big Mahalo!)
日没直後に空のグラデュエーションがとても美しかった。
三日月も良かったので写真を撮った。

3月6日
午前中に激しいシャワーがあった。
雨も止んだ昼前に、取り付けは終了したとアラームの会社から電話があり、午後になってからモーティーの奥さんのMさんにワードまで乗せてもらった。
アラームの説明を聞く。
余分なお金はかかったが、「太郎」にアラームとパワーロックが付いた。
そのままカパフルの郵便局に行き、帰りにヒュメイン・ソサエティで犬とネコを見てきた。
最近なかなか隣のターキーと会わないので、寂しい。
夜になってまた激しい雨が降り始め、夜遅くまで降り続いていた。
3月7日
雨もすっかり上がり朝から良いお天気になった。
今日はマキキ・トレイルへのトレッキングの予定だったが、昨日の雨でマカプウに変更になった。
ワイキキを出る時には、コオラウ山脈には雨雲が残っていたし、貿易風もかなり弱かったので、マカプウの天気も心配だった。
ハナウマ湾を過ぎて海が開けると、白波は全く無く、大変穏やかだった。
サンディービーチから見るマカプウ岬は、雨の心配はなさそうだった。
トレイルの入り口にスクールバスが止っていたが、我々が歩き始めるとすぐに小学生のグループが賑やかに下りてきた。
ざっと30人程。
最近こう言ったグループが目立つ。
さて、再び静かになったトレイルを進み、最初の休憩地点で早速クジラを探す。
静かな海には雲の姿が綺麗に写っている。
しかしクジラの姿は見えない。
次に進んで「クジラの展望台」。
風が弱いので、海をじっと見つめても涙は出なかった。
するとすぐ近くの水面に黒い物が現れた。
クジラの背中である。
恐らく2頭の子クジラだと思う。
潮は吹かずにそのまま潜ってしまったが、次に少し沖で潮を吹いた。
するとクジラの背中のような物がまた見えた。
しかし今度はたくさん。
どうやらイルカの群れの様だった。
ここでイルカを見るのはとても久し振り。
次にクジラを見たのは頂上の展望台だった。
時々亀が泳いでいるのが見える場所のすぐ近くで、今度も最初に背中を見せ、何度か潮を吹いた。
潮吹きの穴まで見えるほどだった。
お客さんもすっかり感激していたが、今日は最初に小学生のグループがいた以外は他のハイカーは少なく、風は弱かったが暑くは無く、ノーザン・カージナルもブラジリアン・カージナルも見る事が出来たし、上々の出来だった。
頂上でスパム結びのスナックを食べ、山を下り始めると、最後には、クジラが尻尾を出して水面を叩く「テイル・スラッピング」も見る事が出来たのである。
車に戻る頃になって、ワイマナロの方から雨粒が飛んできた。
風が巻き始めた。
サンディービーチでジュース休憩をして、ワイキキに戻った。
その後私はカイムキに、追加注文をしていたマヒオレを取りに行き、家に帰って少し昼寝をした。
夕方はテレビでレイカースの応援をして、食後はナイトドライブに出かけた。
風が弱くなり湿度が上がって家の中が暑くなったので、外に出たかったのだが、普段仕事で行っているパールシティの公園に行って、ラグを引いて星を眺めながら寛いだ。
3月8日
ハワイの市バスには自転車を積むスペースがある。
バスが正面に自転車を載せて走っているのは目立つので、見た事がある人もいるだろ。
2台まで積む事が出来るが、折りたたんであるラックを自分で出し、そこに自分でセットする。
運転手は手伝ってくれないので、自分の自転車くらい持ち上げられる人じゃないと利用できない。
運悪くラックが一杯の時には次のバスを待たなければいけない訳だ。
下りる時は自分でまたラックから外す事になる。
ところで、バスの中に忘れ物をする人がいる。
日本と同様で、傘やバッグ、携帯電話などが多いそうだが、観光地らしくパスポートや航空券の忘れ物も目立つと言う。
30日間は忘れ物センターに保管してあるそうだが、いつも一杯の状態で、30日以降は処分されてしまうのだそうだ。
そして最近は自転車の忘れ物も増えているらしい。
3月9日
午前中はシャワーだった。
午後から晴れたが、風が弱く蒸し暑くなった。
夕方近所に散歩に出たついでに、ベレタニアの「チャンピオン・マラサダ」に行った。
ここはレナーズのように種類が無く、プレーンのみ。
2つだけ買って家で食べた。
レナーズより少し大きい気がする。
美味しかった。
3月10日
書類の整理が下手。
オフィス用と家庭用の書類を整理する為に、「フィッシャー・ハワイ」まで箱を買いに行った。
最初はちゃんとしたロッカーを買おうかと思ったが、紙で出来た書類ケースでも良かった。
最終的には安売りしていたプラスティックの箱を買ってきた。
整理用のフォルダーも一緒に買ってきて、家でずっと書類の整理だった。
夜はワイキキの鍋会に出た。
スキューバダイブの関係者の他に、留学生やツアー関係、ウェディング関係、ゲームソフト関係と賑やかに15名ほど集まり、すき焼きを囲んだ。
人が集まれば話題は戦争の話。
ゲーム関係を除き、どこも来週辺りからかなり暇になるそうだ。
ワイキキも観光客の全体の人数は少し減ってきたが、日本人の割合はまだ変わっていない様だ。
風がほとんど無く、蒸し暑い夜だった。
3月11日
今日は久しぶりにマキキ・バレーループ・トレイルへのトレッキングだった。
昨晩は風が無く、コオラウ山脈の上には雲が架かっていたのだが、朝起きると見事に晴れていた。
今日もマカプウへの変更になるかという可能性はあったが、この天気なら問題なさそう。
お客さんをピックアップしてタンタラスの丘の麓へ向かう。
風はまだ弱く、暑くなりそう。
アフリカン・チューリップは、今が盛りと朱色の花を咲かせ、足元にも落ちた花で色を添えている。
プルメリアも少しずつ咲き始めた。
トレイルに入る前に、入念に虫除けスプレーを付ける。
しかし入ってみると湿気ている場所は少なかった。
グヴァの小さな花が咲き、小さな実も付き始めていた。

ストロベリー・グアヴァも小さな実が付いているのがあった。
奥に進むと、早くもマウンテン・アップルの赤い花が咲いていた。
そして今日一番目だったのはパッション・フラワー。
山の中のマンゴーはまだ実を付けていないと思ったら、既に十分匂いのする小さな実が落ちていた。
私はトレイルのパーキングでTシャツからタンクトップに着替えてから登ったのだが、随分汗をかいた。
下りで、山の嶺を吹く風は気持ちが良かったが、ワイキキに戻るとアスファルトの照り返しが強かった。
夜はカパフルの元気寿司に行った。
3月12日
借金のために存続の危機に陥っていたハワイ日本文化センター(JCCH)が復活した。
借金返済の目処が立ったと言う事なのだが、ホノルルの日本人文化の発祥の地、モイリイリにあるこのセンターは、日本文化を広くハワイの人や、日系人たちに知ってもらう為に文化的活動を積極的に行っている。
最近ではキカイダーを呼んで、子供も大人も楽しめるイベントなども開催している。
復活と言えば、日本語放送のラジオ局で、一時活動を停止していたK−JAPNがAM1370で放送を再開した。
と言っても私は普段あまり聞く事は無いのだが、あの阪神大震災の時には最新の情報をこう言った日本語のラジオ放送から得ていた。
そう言えば大震災の時に義援金を持っていったのはJCCHだった。
普段は使わなくても、大切な物もある。
3月13日
国連ではイラクに対する査察の継続か武力行使かで駆け引きが続いているが、アメリカはあくまでも戦争に向けて準備を進めている。
先の湾岸戦争では、パールハーバーの太平洋艦隊が出動してから開戦した。
今回は既に数百名の部隊がパールハーバーだけでなく、カネオヘやキャンプスミスなどから出動しているが、沿岸警備隊にも出動の命令が下ったそうだ。
ハワイでも臨戦体制が整って来たのだ。
戦争の影響によってガソリンが不足する自体は無いと言う事だが、既に価格の高騰は始まっている。
先週まで1ガロン1ドル80セントだったのが、今週はもう1ドル90セント。
先月は1ドル70セント台だったから、20セントも上がった事になる。
狭い島だから、それほどガソリン代は気にならないが、様々な輸送コストがその他の物価も上げてくるだろう。
これからしばらくは本当に辛い状況になりそうだ。
3月14日
ダイアモンドヘッドクラブを立ち上げた当時のお客さんが、7年ぶりに再びハワイにやって来た。
今週末開かれるホノルル・フェスティバルのイベント関係でいらしたのだが、電話を頂いて午後からのチャーターツアーに出た。
博多の有名なうなぎ屋さんのご主人で、そのうなぎをお土産に頂いてしまった!(Big Mahalo!)
お土産のまとめ買いをしたいと言うことで、ハワイカイのカスコなどにお連れした。
7年前のツアーの事などをよく覚えていらして、とても嬉しい気持ちになった。
昨日に比べて風は出てきたが、西から吹いたり南から吹いたりと安定しない。
それでも天気はよく、陽射しは眩しかった。
蒸し暑い夜が続いていたが、今夜は気持ちが良い。
3月15日
天気は良いが風が少し弱い。
会社のホームページを少し更新した。
私は以前コンピュータの仕事をしていた時の知識で、ホームページを全て自分で作っているが、特に「ホームページ・ビルダー」などのソフトを使っていないので、作りは極めて簡単。
個人営業の会社らしく、素人っぽさを出したホームページにしたつもりだったが、昨今は素人の個人ページでも随分と小奇麗になってきているので、私ももう少し見易くしてみる事に決めた。
一番の問題は見る人のブラウザと、画面の表示サイズの違い。
自分のパソコンの画面ではちゃんと表示されるページも、ブラウザが違ったり、ディスプレイの表示サイズの設定の違いで、写真がずれたり、文字が上手く回りこんでいなかったりする。
ブラウザに関してはインターネット・エクスプローラー(IE)を標準として、メインのページにも動作確認済みとしているが、ディスプレイの表示サイズはユーザーによって随分違う。
「ホームページ・ビルダー」と言うソフトを入手したので使ってみたいと思う。
手始めに「オアフ島情報」の「食べる情報」を新しくした。
「お客様の声」のページも、ご感想がそろそろ一通り集まってきたので、近くオープンしたい。
近所から三味線の音が聞こえる。
3月16日
昼頃激しいシャワーが降った。
明日はマキキのトレッキングがブッキングされていたが、キャンセルになった。
代わりにマカプウへのトレッキングが入った。
今月はサークルアイランドに一度も出ていないが、トレッキングはよく入る。
「るるぶ」の効果が出てきたようだが、早く雨季が明けて欲しい。
勿論戦争も早く終わって欲しい。
3月17日
マカプウへのトレッキング。
風が弱くなったが良いお天気になった。
ダイアモンドヘッド・ロード沿いのルック・アウトで海の様子をチェックする。
海はとても穏やかで白波はほとんど見えない。
今日はクジラ観察にはもってこい。
サンディービーチで休憩して、マカプウ岬に向かう。
登り始めてすぐ、坂のちょっときつい所では風が全く感じられず、汗が出た。
海沿いの最初の休憩地点、通称「火曜サスペンス」で崖の上から海を見下ろすが、潮吹きも見えない。
ちょうど下りてくるグループがいたので「クジラ見えた?」と聞いてみると、「沢山いるよ」と返事があった。
次の「クジラの展望台」に向かう途中で、小学生のグループとすれ違った。
皆お揃いのTシャツを着て、30人はいただろうか。
子供達が下りてすっかり静かになり、展望台でゆっくりと観察を始めた。
するとすぐに潮吹きが見え、次いでクジラが背中を見せてくれた。
しかし今日はこんな物ではなかった。
親クジラが大きな水しぶきを上げてブリーチング(ジャンプ)をすると、それに続いて子クジラもジャンプ。
それが3箇所ほどで立て続けに。
大きな親クジラの姿がほぼ完全に水上に現れ、少し身体をひねって水面に落ちていく様子も観察する事が出来た。
大きなヒレを水面に出し、パタパタと水面を叩くペック・スラッピング。
可愛い尻尾を出して、同じく水面を叩くテイル・スラッピングも見れた。
そしてその水面を打つバシャバシャという音も聞こえてきた。
この大サービスにお客さんは当然大喜び。
さらにすぐ下の岩場近くにはイルカの群れも現れ、元気よく飛び跳ね、鳴き声も聞こえた。
頂上の展望台からもあちこちでクジラが見れ、今年はクジラが少ないなんて言う話が嘘の様だった。
スパム結びを食べて休憩の後、下山。
ところが今度はボートが2艘近づいて来て、先ほどクジラが遊んでいた辺りをうろうろしている。
さっきまであれだけ沢山いたクジラもすっかり姿を隠してしまった。
クジラを見に来たボートなのかもしれないが、逆に追い返してしまったようだ。
今日は陽射しも強く、おでこが随分焼けた気がする。
さて夜はワイキキの鍋会に行った。
先週は盛会だったが、今晩はすっかり寂しく4人。
それでも随分久しぶりに会った人もいて、盛り上がった。
戦争が秒読み段階に入った。
3月18日
ダウンタウンの役所に行った。
せっかく頑張って仕事を増やしてきては、テロや戦争のせいで落ち込んできた。
会社を維持する為にやれる事はやっておこうと、動き出したのだ。
午後は、マウイからオアフ島に越してきた父と会った。
クニアの新興住宅地に住み始めたのだ。
そしてビジネスに繋がるかもしれないと、人を紹介された。
1年のうち半年日本、3ヶ月ニューヨーク、3ヶ月マウイで生活している方で、今回は日本に帰る前にオアフに立ち寄り、そのステイ先のハワイ・プリンスでお話を伺った。
本当に仕事に繋がれば良いと思う。
3月19日
今日はマカプウ・コンボツアー。
お客さんは1月にいらしたばかりのダイアモンドヘッドクラブのお得意様。
昨晩から貿易風が強くなり、コオラウ山脈の上には雲が多かった。
ワイキキにも波が上がり、ダイアモンドヘッドのルックアウトから見下ろす海は白波が多かった。
一昨日とは随分コンディションが違う海で、今日はどれだけクジラが見れるか少し不安だったが、風は気持ちよく、山歩きは楽だった。
さてクジラ観察のポイントに来ても、白波が目立ってクジラがどこにいるのかわからない。
随分目を凝らして見たが、風で涙が出てくる。
今日は他の登山者は少なかったが、それでもポイントでは皆海をじっと見つめていた。
結局遠くに潮吹きが数回と、クジラがジャンプした後にできる水しぶきは何度か見ることは出来たが、はっきりと姿を確認することは出来なかった。
下山後は、今日は変則でワイマナロのベロウズビーチに行ってバーベキューランチ。
相変わらず人は少なく、二つしかないピクニックテーブルはどちらも開いていて、その一つに陣取り、準備開始。
昨晩から材料の仕込みはしてあるので、炭を起こしてすぐに焼き始めた。
風はちょっと強かったが、静かなビーチパークでのんびりとした時間を過ごしていただいた。

夜はお客さん達とハワイカイの「バレ」にヌードルを食べに行った。
とうとう戦争が始まった。
3月20日
ノースショアツアーに行った。
今月はサークルアイランドが入っていないので久しぶりのノースである。
お客さんは、皆さんハワイは4度目だそうだがノースは初めてで、とても期待されていた。
色々とおしゃべりしながらH−1、H−2を走ってワヒアワに入ると、さすがに軍用車両が目立った。
それほど緊張感が漂っていた訳ではないが、演習にでも向かうのだろう。
スコーフィールド兵舎の入り口の警戒レベルは「B:ブラボー」だった。
パイナップル畑で写真を撮った後ノースショアを目指す。
天気は良さそう。
ハレイワの町を通り抜けて、サンセットビーチに向かう。
途中エフカイビーチでは大会用の看板が立っていた。
サンセットの波は6フィートほどで形も良く、サーファーも多かったが、観光客は少なかった。
ラグを引いて少し休憩。
その後ワイメアに移動してビーチを見下ろすが、ここはショアブレイクだけが濁った波を巻き上げていた。
ハレイワに戻ってアリイビーチに行く。
今日は「泳ぎたい」と言うお客さんのご希望だったので、ビーチにラグを引いてグアヴァジュースをサーブ。
お客さんが泳いでいる間は、私は本を読みながら荷物番。
ここも沖には4フィートほどの波が上がっていたが、ショアラインでは子供も遊んでいた。
亀も出てきたようだ。
お客さんが海から上がってきて、私がランチの仕込みに行こうとすると、マツモト・シェイブのスタンがブギーボードを持って海に入るところだった。
ランチを買ってビーチに戻り、お客さん達と一緒に食べようとするとスタンが海から上がってきた。
結局我々が食べている間中、スタンはずっとおしゃべりしていた。
これからホノルルに行って、コンベンションセンターで行われている「カー・ショー」を見に行くと言っていた。
食事が終わるとハレイワ・タウンに移動し、自由時間。
私は久しぶりに読書がはかどった。
最後にドール・プランテーションに行くと、沢山の従業員から「久しぶりねぇ」と声をかけられた。
日本人観光客の姿は少なかったが、アメリカ人はとても多かった。
帰りのフリーウェイは普段より混んでいた気がする。
夜は昨日のお得意さんと「魚卓」に行った。
ここは相変わらず混んでいた。
食後はナイトドライブに行った。
風があって公園は少し肌寒かったが、いつもの様に貸切で、広々とした公園でとても開放的な気分になれた。
この同じ地球上で、今戦争が起きているなどとは信じたくなかった。
3月21日
朝からダウンタウンの役所を回った。
陽射しは強かったが風が気持ち良かった。
昼過ぎには家に戻り、ランチを食べ、仕事の後テレビでレイカースの試合を見た。
夜は「マイラン」に行った。
珍しく空いていたが、オーナーのサムさんも「戦争が始まって暇よ」とこぼしていた。
テレビニュースを見ると、攻撃を受けているバグダットが写っていたり、砂漠を移動中の戦車があったり、今までの戦争では見れなかった映像がライブで世界中に放映されている。
アメリカがイラクを破壊している様子が生中継されているのだ。
イラク軍兵士が投降しているところも写っていた。
アメリカは軍や政府の施設だけをピンポイントで攻撃しているので、一般市民には危害は加えていないと言っているが、実際はどうなのだろうか?
これから市街戦が起きれば、多くの市民が犠牲になるのではないのだろうか?
それより、「大量破壊兵器は持っていないので使わない」と言ったイラクから、本当にそのような兵器が見つからなかった場合はアメリカはなんと言うのだろう?
そしてサダム・フセインが殺されたり捕獲され、現在のイラク政権が崩壊した後でもテロが起きた時、アメリカはどう言う説明をするのだろう?
アメリカは塀の上を歩いているような気がする。
3月22日
気持ち良い貿易風が吹いている。
そろそろ雨季も終わりかな?
街にはプルメリアの花が目立つようになり、あちこちでマンゴーが実をぶら下げ始めた。
アパートの裏のピンクテコマの木がまた花を付けた。
近所に、いつも家の前で鳥にパンくずを与えているうちがある。
今日もマイナバードがせわしなく鳴いていた。
夜、ワイキキのデパートで働く友人のタケシが彼女を連れて遊びに来た。
最近カヘカにアパートを借りて一緒に暮らし始めたのだ。
お土産でアラモアナのニーマンマーカスのチョコレートがけポテトチップスをもらった。
プリングルスのような筒状の容器に入っていて、一枚一枚にホワイトチョコレートがコーティングしてある。
一体どんな味なのか、食べる前は興味津々だったが、ポッキーを平たくしたような感じだった。
でもさすがニーマンマーカスだけあって、味はとても上品だった。
テレビをつけなければこんなに平和な状態だが、CNNでは戦場の生中継をしていた。
現実感がまるで無かった。
3月23日
マカプウトレッキングに行った。
お客さんはダイアモンドヘッドクラブの常連さんで、日本酒をお土産に頂いた。(Big Mahalo!)
風が少し弱くなり、波も穏やかなので、クジラ観察にはもってこいと思ったのだが、今日は潮吹きが数回と、背中がチラッと見えただけだった。
日曜だけあって他のハイカーも多く、往復で40名近くとすれ違った。
お天気は良く、山歩き自体は最高だった。
下山後にサンディービーチパークで休憩し、グアヴァジュースをサーヴ。
いつもの週末のようにカイトで遊んでいる人が多かった。
夜はお客さんに頂いた日本酒で晩酌をした。
遅くに昇ってきた月が明るかった。
3月24日
昼間はダウンタウンにいた。
慣れない公文書の英単語ばかり目にして頭が痛い。
夕方モーティーの家にお邪魔した。
どうしてもよく意味がわからない文書があり、見てもらった。
さて、ローカルニュースで、ナイト・クラブの抜き打ち検査を伝えていた。
先月ロードアイランド州で死者99人を出したナイトクラブ火災を受け、ホノルル消防局がオアフのナイトクラブ19店を抜き打ち検査したのだ。
なんとその内16店で消防法違反を摘発した。
いづれも営業停止まではいかなかったが、改善命令がちゃんと守られるのかどうかは今後また検査が必要になる。
私はハワイに来てからこう言った場所にはほとんど立ち入らなくなったが、かつては東京やLAでよく通っていた。
確かに店内は薄暗いのが普通だし、火災や停電の際には大勢の人が出口に殺到したり、煙がこもったりする事は考えられる。
お客さんの中には夜クラブに出かけるという話も時々聞くが、気を付けて頂きたい。
いつも通っているような店なら非常口の場所などもある程度把握しているかもしれないが、旅行者の場合は、特にお酒が入っていると危険度が増す。
これは地下のレストランなどにも言えるが、入ったら非常口の場所は確認した方が良い。
昨年の新宿の雑居ビル火災も思い出した。
火の用心。
3月25日
久しぶりのハワイ大学樹木園へのトレッキング。
風が少し弱いが朝からお天気もよく暑くなりそうだった。
マノアの住宅街の外れから、歩いて奥に入っていくアメリカ人観光客の姿が目立った。
しかし彼らは皆マノア・トレイルに行くのだ。
日本人の姿は無かった。
我々はマノア・トレイルの入り口を過ぎてライアン樹木園に入っていく。
駐車場の入り口でボンバックスの真っ赤な花が目を引いた。

様々のヘリコニアやジンジャーの花が咲き乱れるジャングルを入っていくと、シェイマが現れ鳴き声を聞かせてくれた。
日本では花屋さんに並ぶカラテア・ゼブリナやアンセリウムが、時より森に流れ込む風に揺れていた。
トレイルをそのまま進み、パイナップル、ククイの木、そしてシュガーケインが現れたら道が細くなる。
オーキッドの花が所々に咲く小道を進んでアイフアラマの滝に到着。
滝壷にはオタマジャクシが泳いでいた。
少し休憩してトレイルを戻る。
途中、落ちたジャック・フルーツに虫がたかっていた。
樹木園のコースに入り、ハラの木やシュリンプ・プラントを見てレインシェルターで休憩。
シダやデリキオーサを見てインスピレーションポイントに進む。
一通り歩いてから六角堂でスナック休憩をして戻った。
街の花は大体覚えた私も、ここの花木はさすがに覚え切れない。
今日もいくつか初めて見る花があった。
家に帰ってから時点で調べていると、先日マキキで見た花の名前が違っているのに気付いた。
写真をアップしたのはパッションフラワーではなく、ローズアップルの花だった。
お詫びして訂正いたします・・・。
3月26日
私の自宅兼オフィスのあるヤング・ストリートが、歩行者と自転車の専用道路になるかもしれない。
この案はシエラクラブと言う環境団体のオアフ支部と、ハワイ・バイクリングリーグと言う2つの団体によって出されていて、車を全面的に締め出す案から、時間帯によって車の通行を許す案まで、6通りあるそうだ。
ハリス市長は、トーマス・スクエアからケアモク・ストリートまでを第1期工事として、350万ドルの予算をを計上しているが、最終的には今後市議会で決定される。
私の家はこの第1期工事には含まれないが、案は最終的にはモイリイリのアイゼンバーグ・ストリートまで入っている。
いづれは私の家の前も車が通れなくなるかもしれない。
勿論ヤング・ストリート沿いに住む人も多く、こう言ったケースでは普通住民には交通が認められる。
元々それほど交通量の多い通りでは無いが、キング・ストリートとベレタニア・ストリートと言う大きな通りに挟まれ、通勤時間帯には裏道として利用する人が多く、特に夕方は渋滞する事もある。
また、最近は見ないが、事故も多く、裏道なのにスピードを出す車もいるので、近所の子供達にとっては安全になるのかもしれない。
案を出している2つの団体は、安全に自転車に乗れる事で自転車利用者が増え、キングとベレタニアの渋滞解消にも役立つと説明しているが、スポーツタイプの自転車がスピードを出して走ったら、結局危ない気もする・・・。
3月27日
朝からホノルルは雨だった。
風は弱く細かい雨が降り続いた。
外は真っ白でダイアモンドヘッドも見えない。
気温も上がらず肌寒いほどだった。
夏に出る旅行雑誌で、またうちのトレッキングツアーが取り上げられる予定になっていて、その撮影を私自ら行う予定だったが、今週末はずっと天気が悪いと言う予報が出ている。
しかしこれでようやく雨季が明けるのかもしれない。
3月28日
天気予報に(やはり)反して、朝から晴れ上がった。
しかしニュースでは相変わらず週末は天気が悪いと言っている。
いつ撮影に行けるかわからないので、陽の出ている間にと思い、午後から決行して、一人でマキキに行ってきた。
トレイルは奥の一部を除いてすっかり乾き、カネアロレ川は水かさが少し増え、せせらぎの音も気持ちが良かった。
山を下りてくる風に森が鳴り、鳥達のさえずりが奥深くこだましていた。
マウンテン・アップルの赤い花とローズ・アップルの白い花が増え、落ちた花びらが絨毯の様にトレイルに敷かれていた。
その他野草の花も増えてきた。
勿論写真も沢山撮ってきた。
3月29日
曇りがちの天気で、午後から何度かシャワーがあった。
ハワイの歴史を少しでも勉強した事がある人なら、ダミアン・デビュスター神父の名前はご存知だろう。
ダウンタウンの州庁舎前の像だけではなく、現在はワイキキビーチにも銅像が出来、一体どんな人なのかと思う旅行者も多いはずだ。
ダミアン神父は19世紀後半、33歳の時にハワイでハンセン病で苦しむ人々の中に身を投じ、勇気と自己犠牲を持って患者たちが人間として立ち直れるように慰め、励まし、希望を与えた人だ。
当時ハワイ諸島では、ハンセン病が急激に広がっていて、憂慮した州政府はこの恐ろしい病気に襲われた人々を、強制的に隔離する政策をとった。
ハンセン病と診断されて家族から引き離された人々は、絶望に泣き叫びながらモロカイ島へ船で送られ、そこで生きた屍となっていった。
悲惨な状況の犠牲者たちは、救済の希望も保護する法律もなく苦しみから逃れるために酒と不品行におぼれたのだが、ダミアン神父は人間が住めるような小屋を建て、清潔な水を引き、衣類を送ってもらい配布した。
そして毎日、病気に侵され打ちひしがれた人々を訪問して勇気付け、傷口の手当てをして回った。
臨終を迎えた患者には、司祭として死を看取った後、棺おけを作り、墓を掘ることもあったそうだ。
モロカイ島で働いた16年の間に、神父は1000以上もの棺おけを作ったと推定されるのだが、その16年におよぶ献身と闘いの末、49歳で自らも同じ病に倒れた。
ダミアン神父の墓石には、「人がその友のために自分の命を捨てること、これより大きな愛はない。」(ヨハネ福音書)と刻まれている。
ダミアン神父はその後教会から聖人として認められるのだが、実はオアフ島のガン患者がモロカイ島のアラウパパにあるダミアン
神父の墓地で2度祈祷を捧げたところ奇跡的な回復をしたという。
その担当医師が、ハワイ・メディカル・ジャーナル誌で患者の症状が劇的に改善したと報告したのだ。
これが実際奇跡だったのかはわからないが、ダミアン神父は病気などによる偏見に対してだけでなく、人種や学歴、職業など、全ての弱く小さな人々の立場に立って行動するようにと言う規範を示した。
香港を中心に新型肺炎ウィルスが世界的に蔓延する兆しを見せている。
戦争だけではなく、この地球には人類が文明で築いてきた物を破壊する物が沢山あるようだ。
戦争も病気もテロも、人の心が愛に満ちていれば防げると思うのは、理想論だろうか?
3月30日
天気が安定しない。
海側が晴れていてもコオラウ山脈の上には黒い雨雲があり、風に流されてシャワーが通過する。
それが何度も繰り返された。
さてイラク戦争は、英米連合軍の補給路が襲われて軍の進軍が止り、長引きそうな様相を呈してきた。
ところがこの1ヶ月ほど上昇を続けていたホノルルのガソリンの値段は、1ガロン=2ドルを前にして止った。
私だけではなく、多くの人にとってガソリン価格の上昇は必要経費の上昇を意味するので、値上がりが止まった事は勿論嬉しい事だ。
今は消費量も減っているので、大きな痛みは感じないが、アメリカが戦争に勝つと言う事は、石油を得る事と変わらないと思うので、いづれは価格も下がるのだろう。
アメリカが名指した同じ「悪の枢軸」である北朝鮮は、核開発の疑惑まであるのに、アメリカが関心を強く示していないのは、石油のような戦勝品が無いからなのだろうか?
イラクに取材に行っている世界各国のレポーターのニュースを聞くと、独裁国家と言っても市民は随分自由な中で暮らしていたように思える。
それに対して、日系テレビのニュースで、忘れた頃に報道される北朝鮮のレポートは、独裁国歌による国民の洗脳と言う風にしか見えない。
アメリカの当初の作戦は失敗だったとレポートした、アメリカのテレビ局の記者が解雇された。
結局自由な民主国歌で生まれ育っている我々も、どう言う形で報道を制限され、情報を制限されているのかわからない。
ただなんとなく、おかしいな?と思うだけなのである。
石油が地球上で限りのある資源だと言う事は前からわかっている。
つまりいつかは無くなってしまい、人類は別のエネルギーを求めなければならないのだ。
石油が無くなれば、今の産油国は滅亡してしまうかもしれない。
しかしこんな戦争も起きなかったかもしれない。
アメリカはこの戦争に使うお金で、別の事が出来なかったのだろうか?
3月31日
朝一番で空港近くの修理工場に行った。
先週車のオイルチェンジをしてから、車体の下の液漏れが目立っていたのだ。
気になって調べてもらうと、補充したオイルが多くて溢れていた様だった。
先週は、何箇所か穴の開き始めていたティンティングの張替えもして、太郎君すっかり綺麗になってきた。
おまけにいつのまにか日本でテレビに出てたり・・・。
ボディーのペイントが剥げてきている箇所もあるので、これも今度は対処したい。
その後、ダウンタウンの役所に寄り家に戻った。
キング・ストリートを走っていると、マッキンレー・ハイスクール付近のゴールドツリーがまっ黄色に花を付け、目に鮮やかだった。
今年は二月頃から早咲きを見ていたが、やはり本当の季節を迎え、町のあちこちで目を引く。
今日は東寄りの風だったが、湿度は高かった。